文化芸術で喰っていくのは大変

戦争反対コミュニティに書いたことが純魔擁護と誤解されたようだが違う。単に文化芸術で喰っていくのは大変だということが言いたかっただけだ。
純魔の絵やイラストが売れないと言うが、音楽、哲学、文学も売れないのであり、それは構造的な問題である。市場が作品の価値を正しく判定するという保証は何処にもない。まあ村上春樹の『1Q84』なんかは市場の評価と作品の価値が(多分)一致しているのだろうが、私は読んでないので分からない。
しかし、そんなのは例外である。
仮に良い質の作品を作ったとしても売れないのが当たり前である。(まあ私の場合は、それ以前に良い質の作品を創作してないという問題があるわけだが。)哲学者・文学者・音楽家は在野でやっていくのは厳しい。文芸批評家などもそうなのだが、筆一本でというのは難しい。大学に雇用されると、経済的には安定することになるが、それまた狭き門である。
ジル・ドゥルーズが『哲学とは何か』で市場(資本主義)を拒絶し、創造を擁護したのには理由があるが、そして彼の大学問題に対する態度なども類似の発想があるのだが(資本主義的市場の価値観から相対的に自由な場としての大学の確保)、現実には産学共同などが進んでおり、「象牙の塔」はますます存在しにくくなっている。哲学などは片隅に追いやられたり消滅したりしており、実学がもてはやされ、即戦力の社会人を育成する場として大学が定義し直される。
まあそれはジョン・デューイの教育論以来の議論なわけだが。職業生活と遊離した一般教養教育に意味があるのか、という問いである。だが、A. N. ホワイトヘッドらは一般教養教育(古典語など)を擁護した。実学実学で意味があるが、古典的な教養も必要だ、というわけである。ドゥルーズルネ・シェレールの大学論もその系譜を引いているが、だとしても、端的に金が無いという状況をどうすればいいのか分からない。国家にたかり続けるとしても、国家自体が借金塗れだ。ではどうすればいいのか、見通しは余りない。

哲学とは何か

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学校と社会 (岩波文庫)

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