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前田さん、私は格好悪くとも、「生きる」より他ないのだろうか? 美しい死、などは幻想なのだろうか? 自分自身にけじめをつけることなく、だらだらと生きていていいものだろうか? 私には、本当に、それらのことが、わかりません。自分が生きていていいものかどうか? 厄介な問題です。
私は、本当に、自分は死んだほうがいいのではないか、と思う。だが、死ぬ勇気もないから、惨めに生き恥晒している。生きていること自体が、恥ずかしい。だが、私は、恥辱に耐えています。
一年半倉庫で働いて、私には、賃労働は無理だということがわかりました。社会適応が、どうしてもできません。私には、一日八時間働いて生活の糧を稼ぐということが、どうしても、できそうにない。体力的にも耐えられないし、精神的、神経的にも無理だ。働け、という命令には、いつも過剰に反撥してしまう。働けない自分を、それだけ負い目に感じているからです。
マイミクシィの中には、雨宮さんの本で私のことを知ってアクセスしてくれたという人もいますが、彼などは、私の今の体調では、何をやってもうまくいかないのは当然だ、心身共に治療が先、と言います。しかし、人格障害と診断されている私の病は、不治の病、或いは、性格、人格そのものの病であると考えられ、そう容易に治るものとも思えません。病気を治してから、Cafe LETS(惰民堂)というわけにも、いかないのです。
2ちゃんねらーは、医者も否定しているのに、私が病人ぶっている、と言う。しかし、社会不安障害(不安神経症)、回避性人格障害(不安人格障害)というのは、医者から告げられた診断です。私が、狭義の精神病(統合失調症躁うつ病うつ病)ではないとしても、神経症なり人格障害であることは確かなのです。私が、詐病しているというのは、当たらない。
また、仕事を辞めたら元気になった、あいつは単なる怠け者だ、とも言われます。しかし、仕事が最大のストレスだったのであり、また肉体的にも重い労働であったのだから、それから逃れたら、楽になるのは当然ではないでしょうか。このことは、前回の手紙でも書いたかもしれません。繰言になったかもしれませんが、お許しください。
しかし、私は、単なる怠け者でいけないのか、とも思うのです。私は、働きたくない。だから、働かないし、働けもしない。意欲も能力もない。そのことを、自ら認めている。しかし、そのような人は生きていてはいけないのでしょうか? 働く気がないことが、単なる甘えとして非難に晒されるべき事柄でしょうか? 労働市場からの撤退は、賢明で懸命な選択だと思うのですが。しかしここ日本では、就職を断念したら、失業者にカウントされもしないのです。
私は、惰民党名誉総裁として、単なる怠け者がだらだら生きる権利を求めます。
惰民は、日本国憲法にある、勤労の義務を放棄して、果たしていないではないか、だから権利主張などできぬ、と言われる方もいるでしょう。しかし、惰民は、かくあるより他生きる術がないのです。
だらだら生存するより他、生きようがないのです。
そのような存在に勤労の義務を強制するのは、死ねと言うに等しい。惰民は、余計者だから、死ね、とおっしゃるのでしょうか? そう言う人もいるかもしれません。しかし、我々惰民は、耐えられる限りは、「生きる」。忍辱の鎧を着て、朝の街中に進み出るのです。
今日は、ここで一旦、送ります。