攝津は凡庸な自分として凡庸な日常に復帰しようとしていた。復帰出来るかは分からなかった。堪えられるか、どうか。まだ分からぬ。だが、慣れた仕事に戻りたい。慣れた仕事場こそ「自分の居場所」である。慣れた仕事場で慣れた手作業をしている自分こそ「本当の自分」であり、それ以外に夢の自分などという物は無い。一週間休んでみて、仕事をしていると時間が経つのが速いのに、仕事を休んでいると時が経つのが遅かった。仕事をリズム良くこなしている時は好調であり、自分としても苦痛が少なく生きる事が出来る。それを大事にしたかった。ようやく身に付きかけた労働の習慣とささやかな技術を捨て去るのは惜しかった。単純作業でも技術という物はあるのである。そして攝津はそれを身に付けていた。それを失いたくなかった。
もう半月も、まともに働いていない。三月四月は一所懸命働こう、労働を第一義に考えよう、と攝津は思った。自分をプロだとかアーティストだなどと考えてはならぬ。自分は労働者であり、それで十分なのだ。自分は倉庫内労働者である。その自分を肯定し受け容れよ。そうすれば生き易くなる。攝津はそう繰り返し自分に言い聞かせた。
断念が成熟だとして、攝津には自分が断念が出来る物かどうか判断が付かなかった。断念や諦念が本当に自分の物になるかどうかは分からなかった。情念が反逆するやもしれぬ。身体が堪えられなくなるやもしれぬ。だが、その時はその時だ、と攝津は思った。