10〜完結篇:初期『労働』三部作乃至「自意識(過剰)の魔」三部作完結

悟ったと感じる事がままある。錯覚である事が多い。認識に至ったと思うが、至れていない。生活が変らぬ。何時迄も同じ事の繰り返し、堂々巡りなのだろうか。

攝津は花粉症に罹った。という文で始まる断片で、『シコシコ』を終らせようと思った。つまり、『労働』『生きる』『シコシコ』の「自意識(過剰)の魔」三部作を終らせようという事だ。攝津は『シコシコ』の終りを『労働』の終りと同じにしようと考えた。つまり、凡庸なる日常への復帰、快癒として終らせようと思ったのだ。
二月に何故、攝津が崩れたかは明らかに、ライブを見に行くようになったからである。それ迄CDを若干買い、平日は倉庫で働き休日はラジオをする卑小な自分で自己完結していたのが、他人のライブを見に行くようになって、嫉妬の心が生じた。つまり、何故自分はアーティストになれないのかと言う事を深刻に悩むようになったのである。そして、倉庫内労働者である自己が耐え難いと感じるようになった。
昨年末から二月に掛けて、妹尾美里橋本一子石田幹雄、二代目・高橋竹山松本茜兵頭佐和子宮野寛子とピアニスト中心に多様なアーティストを聴いてきた。その度に攝津は敗北感に打ちのめされた。自分の表現は此処には届かない! 自分は素人でしかなく、「プロ」になど未来永劫成れる筈が無い! そういう思いで一杯になり、攝津の下らぬ自意識とプライドは粉々になり、「ドラえもん」=前田さんの「褒め殺し」をもってしても維持出来ぬ迄になった。それが攝津の病気の根本原因である。それと、フリーターズフリーに依頼されて、残酷な自己分析の文章を書いたのも病気に拍車を掛けた。冷徹に自己認識を進めて行くと自分は死ぬしかないように思える。その認識が攝津を切り刻み責め苛んだ。攝津は自分自身の自己分析で病んだ。分析が癒しではなく病を齎した。攝津が等身大の自分を見つめるという事は卑小で駄目でどうしようもない行き詰った自分を見つめるという事であった。学歴が何の役にも立っていない、何の才能も無い凡庸なる自分自身の姿を見つめるのは恐ろしかった。攝津は外面的にメタボ豚で醜悪なだけでなく内面的にも崩壊していた。攝津には「自分自身を維持する」事が出来なくなっていた。それで崩れた。仕事に行けなくなった。
だが攝津は、三月以降はまた凡庸な日常に、倉庫の仕事に復帰出来そうな予感がしている。あくまでも予感である。実際に働いてみないと分からぬが、昨日迄退職する積りだったのが、慣れた職場で働き続けようという気持に変ってきた。凡庸で退屈で変らぬ日常に復帰するのが大事だと思えた。会社はなくなるかもしれず両親は亡くなるかもしれない。だが、非常時は何時やって来るか分からぬとしても、とりあえず平時である。普通の日常を普通に生きれば、それで良い。小分けの先生なりオリコン出し・シール出し等々として生きて働けば良い。そう思えた。
ピアニストや作家や哲学者に成れずとも良い。倉庫内労働者で良いではないか。その自分を認め受け容れれば、問題は解決する……というような事は先週も考えたのであった。だが駄目であった。仕事には行けなかった。だから、今度も仕事に行けるかどうかは分からぬ。また同じ事の繰り返しになるやもしれぬ。だがいいではないか。働ければ金になるし、働けずとも直ちに死ぬ訳ではない。開き直れ、攝津! 生きろ、攝津! 攝津は自分で自分を鼓舞した。そうせずにはいられなかったからである。
一週間、休んでみて、自分の駄目さが底の底迄分かった。だから諦めるべきなのである。何ものかに成ろうなどと思うな。単に生きろ。働け。攝津はそう自分に繰り返し言い聞かせた。〈了〉