『生きる』-20

その日攝津は、三時間働いて正午、午前中上がりで帰って来た。昨日から引き続く疲弊が、限界に達した為であった。この日八時間肉体労働する事は不可能に感じられた。それで帰宅した。
新浦安駅武蔵野線の電車を待つが、三十分以上来なかった。それで橋本一子の『VIVANT』を聴きながら三島由紀夫の『禁色』を読んでいた。攝津は電車内でも『禁色』を読み続け、帰宅してからも読んだ。そして遂に『禁色』を読み終えた。音楽は、松本茜の新譜に変っていた。浜村昌子から送って来る筈の小包は、帰宅した時まだ届いていなかった。
昨晩は、肉体的疲弊の余り、数行しか書く事も出来なかった。音楽演奏はもとより、書く事すら出来ぬというのは、攝津に生命力の衰退を自覚させる。書けぬというのは、生きられないというのと同義に思えた。昨晩は、iwaさんとのチャットも途中で気分が悪くなり苦しくなり退席した。それ程苦しかった。肉体的に。やはり労働はきついものであった。
労働がきつい。それは当たり前の事である。そんな事に堪えられぬようでは生きる事など覚束無い。そう攝津は考えた。だが、それが今の三十四歳の自分だった。攝津は、三十四歳の自分の精神的、肉体的な醜さを自省した。昨晩浅田彰が書いたエッセイをウェブで読んだのだが、自分は他者の貧しい性愛を嗤えぬと思った。攝津自身、同性愛嫌悪を内面化していたし、貧しい性行為しか体験した事が無かったし、今後も豊かな性を享受出来る可能性は皆無だったからである。『禁色』を読みながら主人公の悠一や周りの少年らに嫉妬したが、彼らに嫉妬したところで始まらぬとも思った。
攝津には性的な肉体的な魅力も、精神的な崇高さも欠けていた。攝津は醜悪な豚、ただそれだけだった。

決定版 三島由紀夫全集〈3〉長編小説(3)

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VIVANT

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プレイング・ニューヨーク

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