プルードン主義者な自分

マルクス主義者、マルクスレーニン主義者はプルードンを頭から否定する。『哲学の貧困』、さらには『資本論』が完膚なきまでにプルードンを批判したと考えているのだ。
僕はマルクスのテキスト、『資本論』を教条化するそうした見方に与しない。僕は資本論から距離を取る。そして、プルードン主義者である。
預言者さんは、今ネオ・プルードン主義が流行っているというが、流行っていない。プルードンは読まれていない。プルードン的思想や実践も流行っていない。LETSにせよ人民銀行にせよ、流行っていない。
流行が問題ではない。
政治革命ではなく、社会革命を選択すること。フランス革命の拒否。これこそが重要なのだ。フーリエであれプルードンであれ、共通するのは、ルソーとフランス革命への反感、そして漸進的な社会革命の選択である。僕はその路線を支持する。僕は空想的ユートピア社会主義者である。
マルクス主義者が科学的とは思わない。
柄谷行人のどこに批判的かというと、マルクスを教条化するゆえ、現実から目を逸らし独善的になるという点なのだ。資本論に資本主義を揚棄するのは協同組合だとあるから、協同組合がいいという。カール・シュミットも言っている、誰それも言っている、それがどうしたというのか。現実に協同組合が無力であるなら、意味がないではないか。マルクスのテキストから現実を再構成しようとする、そうしたNAM的試みの一切に、僕は全く無関心である。
NAMに意味なし。というのが僕の立場である。