lets / bi

lets / bi. それは、資本制の果ての夢。
LETSからすれば、金がないから現金を配ろうというBIはそれこそ「現金」に見える。BIが「現」金、現実的貨幣を配るのに対し、LETSは可能的貨幣を各人が発行する。貨幣とは交換可能性であるが、LETSは可能性の可能性、メタ可能性だ。
僕は矛盾したことを語る。lets / bi、両方駄目だ。lets / bi、両方いいじゃないか。或いはLETSの立場から…、時にはBIの立場から…。
が、基本的には苦い記憶からくる制止の感情が先に立つ。かつて左翼はLETSに浮かれていたではないか。しかし、結局、何にも実現できなかったではないか。BIも騒ぐだけ騒いで、実現されないで終るのではないのか。つか、所得税50%とか相続税100%の世界に住みたいか?
どうしてLETSはうまくいかないのか。信頼が醸成されないから。共同体が自然発生的に形成されないから。しかし、だからといって、BIのように、現金を配れ!でいいのか。
LETSがうまくいっていないという自覚はある。Qを追放された僕は、meta及びLETSというLETSをやっているが、どうしても交換が生じない。取引がない。駄目なのだ。どうすればいい?分からない。
個人や集団が限りない創造性、想像力を発揮し、過剰な生産・創造・行為遂行(パフォーマンス)を行っていかなければ、交換されるべきモノ・サービスが生じない、というのは分かる。
だから僕はテープを作ろうとした。うまくいっていないが。
上原ひろみのCDは商品になる、僕のテープは商品にならない。何故か?圧倒的な才能・力量の不足?運不運?月とスッポン?
しかし、草の根的交換を!無名のものどもの間での交換を!