書評:川上未映子『ヘヴン』(『群像』2009年8月号掲載)

ヘヴン

ヘヴン

群像 2009年 08月号 [雑誌]

群像 2009年 08月号 [雑誌]

川上未映子という人の書いたものを初めて読んだ。僕の感想は、凡庸だが、これは宗教、道徳、倫理、哲学に関わる問いを提出している、というものだ。僕はプラトンの『国家』篇で権力主義者のカリクレスとソクラテスが議論するのを思い出した。また、ニーチェを思い出した。永井均の『これがニーチェだ』で、いじめっ子が他者を苛めることでしか自己を肯定できないなら苛めるのが善いことなのだという意味のことが主張されていたのも思い出した。

印象的な場面が幾つかあるが、その中でも主人公と百瀬との対話は最も興味深いものだろう。簡単にいえば、主人公、語り手は生には意味があると思っている。自分が苛められているのは斜視だからなのだ、と。百瀬はそれを退け、全てはたまたまだ、という。また、いじめなどについても、やっていいか悪いかではなく、できるからやっているのだともいう。

百瀬のようなタイプの人間は、すぐにニーチェ主義を想起させる。主人公(語り手の「僕」)やコジマは明らかに弱者であり、そのことを自覚している。弱者であり苛められているが、ほとんど宗教的?なまでに「しるし」を信じ(それは「僕」においては斜視でありコジマにおいては汚れである)、意味の顕現、最後の救済?を信じている。彼らは常識的な意味で道徳的であり、宗教的でさえある。そのことの意味が問われる。

百瀬は、主人公が自分が苛められているのは斜視という「意味」があるからだと主張するのに対し、無意味を主張する。彼が苛めの対象になっているのは、たまたまだというのだ。僕の印象では、主人公は反省的自省的思考に閉じ篭る余り現実的な解決策を打ち出せずにいる。最後に、いじめを母親に話し対策を練るが、もっと早くにそうしていれば良かった。また、斜視が手術で治るなら、それを「しるし」だなどと意味づけずに治せばいいだろう。「僕」もコジマも、そして二ノ宮達いじめっ子集団も、意味と無意味の網に雁字搦めに縛られているかのようだ。意味など人間が作るものでしかない。最後のコジマの「勝利」もまた、「たまたま」でしかないとも言えるのではないだろうか。

人間が作る意味に人間が縛られる。しかし、人間の生活や人間関係はほとんどそれに規定されてしまっている。いじめに限らず、普遍的一般的にそれはいえる。意味を組み替えること。袋小路から脱出するにはそれしかない。しかし、新たな意味と無意味を生産し、力関係を組み替える(逆転する)のは容易ではない。

纏まりがないが、一読しての感想でした。