哲学×JAZZ #1

JAZZを哲学する、或いは哲学的にJAZZすることは可能だろうか。まずは、リズム、そして即興ということになる。ビバップを美の痙攣として捉えること。吹きまくるブロウの生の荒々しさを肯定すること。
JAZZを複数の記号の生産と解釈の営みとして捉えること。
コード、法との関わりでJAZZを思考すること。
ピアノ、このヨーロッパ的楽器で非ヨーロッパ的なるパフォーマンスをすること。セシル・テイラー、そして彼以前に、セロニアス・モンク
アフリカ人が奴隷としてアメリカ大陸に連れてこられなかったら、南北戦争がなかったなら、JAZZはなかったろう。
厭戦的或いは無関心的態度の根底に根源的な戦争状態を見出すこと。
ビバップは「別の」戦争音楽以外の何であるのか。
それは煽っているのではないのか。
生きることを、生の祝祭を。
チャーリー・パーカーの『サミット・ミーティング』におけるまさに「頂点」の記録を聴け。
そこには生の讃歌しかない。
純粋な讃美。
バードとは生の讃美であった。