賃労働百六十四日目

攝津正 9:00-18:00 7時間45分 時給850円 6587円。
電車内で政治概念についてずっと考える。「ないかくだとう」に何故賛同できないか、を熟考する。何故麻生自民党政権を積極的に支持するのか、も。
濃密な思考そのものを簡潔に表現するのは不可能だが、ポイントを挙げると、具体的理由=理(ロゴス)なしに、権力が権力であるが故にそれを打倒すべきであるとし、誰々の内閣は要らない、ではなく内閣そのものが要らないのだと主張することは、間接民主制・議院内閣制の否定であり、ひいてはそれを規定している日本国憲法憲法秩序そのものの否定である。だから賛同できない。
そして、内閣打倒に積極的に参与しない者は政治的傍観者だ、というような非難にも同調できない。では、麻生政権を積極的に支持しているような約一割の国民は有効な政治的エージェントではない、と言うのか。その根拠は何か。というようなことを考えていくと、私はますます「仲間達」から遠ざかり、彼・彼女らを裏切ることになるのである。
それと、カントの『永遠平和のために』を再読して発見したのだが、カントの理論を現代の用語で定義するとすれば、彼は立憲君主制の理論的根拠を与えたと言ってよいと思う。彼は、共和制の理論家と自称しているのだが、彼の言う共和制概念はわれわれが普通に用いる共和制の概念とは大幅に食い違っており、むしろ立憲君主制と言うべきである。何故なら彼は、共和制を最も実現しやすい政体は君主制だと考えているのだから。彼の言う「共和制」とは、三権分立、というか、執行権力と立法権力の分離であり、それは端的に言えば憲法秩序ということである。私は、カントに近代の哲学者が全てそうであるように、多数者=マルチチュードへの本能的な恐怖を看取していたが、それだけでは十分ではないと思うようになった。今の日本がそうであるような立憲君主制の積極的な擁護者としてカントを捉え返すべきではないか、と思うのだ。
というのは、カントの時代はフリードリヒ二世の時代だが、彼は、いわゆる「啓蒙君主」の一人である。最近柄谷行人がどこかで、君主(王)の本質を独裁者にではなく「啓蒙君主」のようなものに見るべきだと主張していたが、私も賛成だ。ただ、彼とは力点が異なる。彼は、だから啓蒙君主の欺瞞を批判すべきだと述べているのに対し、私は啓蒙君主的なものにプラトンの哲人王以来の理念を見て取り、評価すべきだと思っているのである。
話を卑近な政治的イシューに戻せば、来る29日に千葉県知事選挙が行われるが、私は元自民党で、自民党を離党して立候補した西尾憲一候補を一貫して応援している。客観的にみれば、彼は現在の選挙戦のメディア的イメージ(与野党対決、とか)と無縁なため全く無視されているし、知名度の点でタレントの森田健作に勝てないので、恐らく敗北するだろうとは思うが。多分、森田が知事になるのではないか。白石も吉田もいまいち決定打に欠ける気がする。堂本暁子知事が後継者に指名した吉田平は、立候補表明が遅過ぎたと見ている。組織票が一定はあるだろうが、それでは無党派を取り込めまい。白石候補については、よく知らないというのが本音だ。
麻生政権を何故支持するのか。私は、何党であれ、新自由主義市場原理主義を批判する政権を支持する。日本でいえば、端的にいえば小泉純一郎である。麻生太郎小泉改革を見直す旨の発言をしており、私もそれに賛成なので、支持している。また、定額給付金にも賛成している。
今日はボビー・ティモンズの『ジス・ヒア』とウィントン・ケリーの『枯葉』を聴いた。ファンキーなものの意外な粋さとか、洗練を聴き取りたいが故である。

ジス・ヒア

ジス・ヒア

枯葉

枯葉

誤読の余地があるので注釈

端的にいえば小泉純一郎である。→新自由主義市場原理主義を端的にいえば、という意味。それを批判する政権を端的にいえば、ではない。誤解される恐れありと思ったので一言。