快楽と苦痛

「こうして真の哲学者の魂は、このような解放に対しては決して反対すべきではないと考え、そのゆえに快楽や欲望や苦痛からできるかぎり離れるのだ。つまり彼の魂はこう考えるのである。人が快楽や恐怖や欲望を強く感じるとき、その結果として受けとる悪は、普通考えられるような、たとえば病気をするとか、欲望をみたすために資産をつかいはたすという類いのことではなくて、諸悪の中でも最大にして最後のものだ、それなのに人は誰一人として、それを考えてみようともしないのだと」
「その最大の悪とは何ですか、ソークラテース」とケベースがたずねました。
「すべての人間の魂は、強い快楽や苦痛を受けると、それと同時に、そういう感覚を最も強く与える対象こそ最も明瞭で最も真実であると──実際はそうではないのに──考えざるを得ないということだ。こういうことは、特に可視的なものの場合に多い。そうではないか」
「そうです」
「魂は、そのような経験の際に最も肉体によって縛られているのではないか」
「どういう意味で?」
「個々の快楽や苦痛が、まるで釘でも持っているかのように、魂を肉体に釘づけにし、押えつけて、肉体の言うことなら何でも真であるとみなすよう、魂を肉体に同化させる、という意味でだ。なぜなら魂が肉体と同じことを考え、同じものを喜ぶならば、魂は思うに必然的に肉体と同じ習慣、同じ糧を持つようになって、決して清浄な状態でハーデースに至ることができず、常に肉体によって汚されたままで世を去り、そうしてすぐにまたほかの肉体に入り、ちょうど種子がまかれたようにそこに根をおろして、その結果は、神的で清浄で単一な形を持つものとの共存を永遠に奪われるであろうからだ」(プラトーン『パイドーン』池田美恵訳、83B-E)

この議論は興味深いと思います。僕は賃労働していて、全くその通りだと思うのです。労働の苦痛を感じるたびに、魂が肉体に「釘づけ」にされていると感じる。理性的に考えることができるのは、過度の快楽とも苦痛とも縁遠い状態にある時です。

ソクラテスは或る物はその反対物から生じる、という議論をしていますね。僕は快楽と苦痛については、それは或る程度妥当なのではないかと思います。苦痛から快楽が生まれ、快楽から苦痛が生まれる。そういうことは日々経験されるのではないかと思います。