賃労働三十四日目

さて、攝津正である。
今日は酷かった。午前は抑鬱、夕方はパニック発作、とにかく身体的にも精神的にもキツかった。
労働の話はこれくらいにしよう。私は別の話がしたい。私の転向の話がしたいのだ。
よねざわいずみと揉めた件にしても、私が謝罪して解決したとはいえ、あの出来事の本質的な意味は見失われている。それは脊髄反射的なものではなく、長期に渉る経験的変化が問題だったということだ。
端的にいえば、私は、彼女と揉めた時点、いやさらに遡り「わが転向?」を書いた時点で、もはや左翼ではない。スターリニストからアナーキストに至るまで、左翼と一括されるいかなる立場性にも属さぬ。私の今の立場は、生活保守、或いは単に「生」の立場である。自己の信念を常に経験によるテストに掛けて修正する用意のあるプラグマティストの立場と言っても良い。
私がレイバーネットやaml、世界社会フォーラムを辞めたのは、単純に、もはや左翼ではないからである。共産主義者でも、共産「趣味」者でもない。私は、単に働き生きる者である。
私が左翼を辞めたのは、左翼的常識とでもいえそうな、左翼というアイデンティティを自称するために必須となるもろもろの前提なり暗黙の含意なりが合理的に理解できるものではないと考えるに至ったからである。
転向(コンヴァージョン)とは改宗、回心の意だが、もともと左翼そのものが宗教的であった。社会主義の伝統は、マルクスエンゲルスヘゲモニーを握るまで、キリスト教的なものが多数派だったのであって、例えば今日の世界社会フォーラムマルクス主義者よりも急進的なキリスト者が多いというのは偶然でもなければ今日的事象でもなく、昔からそうだったというだけの話である。
そして私は、あらゆる宗教を拒絶するのと同様に、左翼という宗教、左翼的信仰も拒否する、ということなのだ。
よねざわいずみと揉め、労組脱退を宣言し、復帰するに際して私は謝罪文を書いたが、それには「左翼的常識」という言葉が含まれていた。それは意図的なものである。私は、私が拒否するその当のものを欠いていた、──私の原文はそうであった。しかし、労組の執行委員会の要請で、「左翼的」という限定を削り、単に「常識」を欠いていた、とした。けれども、ここが肝、というか、大切なところなのだ。
私の友人の多くは左翼なのだから、私が左翼を辞めたと言えば彼・彼女らは裏切り行為と思うであろう。が、私は、そうした擬似宗教的ドグマなり共同性(制約)が厭なのだ。倫理的狂信が厭なのだ。私は、左翼的なものであれ、右翼的なものであれ、はてまたどんなものであれ、狂信は厭である。
自分の知性で理解し把握できるもの以外は受け入れず、従わぬということ。これを私は私の格率としたい。