精神分析を考える

さて、私の主治医である爽風会佐々木病院のH医師は、認知療法薬物療法も重視するが、もともとは精神分析に関心を寄せていたとのことである。私もかつてはそうだった。しかし、私はフロイトや特にラカンらが展開した難解な理論についていけないし、ついていく必要も感じぬ。

精神分析が科学的(学問的)であるかどうかは、定期的に問題提起されるトピックである。科学の側からも哲学の側からも疑義が呈されてきた。簡単にいえば、フロイトラカンのいう「無意識」は、カントの物自体に似て、検証も反証も不可能な代物なのである。われわれは、無意識そのものを知ることはできぬ。その働き(と想定されるもの)を知るだけである。夢、機知、症状……。だが、それらの記号(徴候)が本当に、無意識なるものの存在を指し示しているのかどうか、誰も知らぬ。

精神分析は、科学(学問)として基礎薄弱で、治療法として無能である。それはH医師も実際の診療においては精神分析などしていないことからも明らかである。実践としての精神分析には、時間も金銭もかかるので、ブルジョアにしか不可能である。

さて、私は、大学と大学院でドゥルーズを研究した。ドゥルーズといえば、精神分析がはびこるフランスにあって、反精神分析の論陣を張った人である。しかるにここ日本においては、そもそも精神分析は社会的に承認されていないし、ほとんど実践もされていない。私は、かつてそのことを不満に思った。が、今はそれでもいい、と考える。フロイトアメリカに上陸した際、アメリカ人らはわれわれがペストを持ち込んだのを知らない、という意味のことを述べている。そして実際、アメリカでは「セラピー」が大流行である。日本でも、臨床心理士になりたいなど、他者(というか、真実には自分自身)を「癒したい」と希望する人が多い。しかし、私は、それは叶わぬ望みだと思う。私は、精神分析なりカウンセリングが、患者=受苦者の苦痛を和らげるとは思わぬ。苦しむ者はその苦しみを、果てまで追わねばならぬ。そして、自分自身で答えを見つけるよりほかない、と思うのである。

一旦ここで送る。