ヒューム・ルネッサンス

昨晩ウィリアム・ジェイムズ著作集第一巻を読んでいて、特に習慣や連想(観念連合)のところなど、「ヒュームとどこが違うの?」と思った。
というか、十九世紀末から二十世紀にかけて、ヒューム・ルネッサンスとでも言うべき事態が生じていたように私には思える。
印象や観念、その連合ではなく、意識の流れなりその持続なりを強調した点で、ウィリアム・ジェイムズ、アンリ・ベルクソンフッサールはヒューム(=イギリス経験論)と異なっている。しかし、両者の共通点は差異より大きい。十九世紀末に雨後の筍の如く生じた新しい哲学(心理学)の唱道者達は、皆、カントからヘーゲルに至るドイツ哲学の壮大な展開がヒューム等イギリス経験論の提起した問題を解消してしまったのかどうかという点に疑義を呈した。彼らは皆、意識の事実に還帰した。

精密科学としての科学的心理学(行動心理学→認知心理学等)、厳密な学としての現象学的心理学、フロイトラカン精神分析を比較してみると面白いかもしれないが、私にはその余裕も能力もない。ただ、フロイトの放棄された『科学的心理学草稿』は、当時の生物学・生理学・心理学…の状況の枠内において「科学的」であろうとした努力である。

さて、十九世紀に戻ってみるならば、当時の心理学は、邦訳が全くないために(私も読んでいない)われわれには馴染みがないが、「連合心理学」と呼ばれるものだった。ウィリアム・ジェイムズの『心理学』(岩波文庫)はそれに叛旗を翻した書だったのである。ベルクソンの『意識に直接与えられたものに関する試論 時間と自由』もそうだ。フッサール現象学が提起した純粋なる「記述」というのもそうだ。意識のありのままの事実に帰ること。十九世紀末から二十世紀初頭の哲学の掲げた課題はこれであった。これに西田幾多郎善の研究』の「純粋経験」を加えてもいいかもしれぬ。

纏まりがないが、ここで一旦送る。