プレモダン / モダン / ポストモダン

ジャズがプレモダン / モダン / ポストモダンの融合した形態ではないかという意見の根拠は、ジャズが展開した期間の短さによります。西洋音楽総体としてみれば長期間(数世紀)かけて進んできた過程が、ジャズにあっては凝縮して示されている。似たような事情は、西洋文学 / 日本文学においてもあります。西洋文学においては長期間かけて進んできた事柄が、日本では明治維新以降急速に・凝縮されて進行したという意見もあります(この意見の元ネタは柄谷行人です)。

ジャズは生まれてから100年そこそこの音楽ですし、基本的に複製技術(録音)の発展と共に展開してきました。「ジャズピアノの父」アール・ハインズが'60年代以降急激にリバイバルしたりしている事実からも分かるように、ジャズシーンには、もろもろの音楽が同居していると思うのです。デューク・エリントンオスカー・ピーターソンセシル・テイラーが同居し…という具合です。実際、CD化はされなかったようですが、ピーターソンとテイラーのピアノデュオのコンサートもあったと聞き及んでいます。また、これはかなり根拠なき私見ですが、後期というか、「黄金トリオ」解散後移籍してからの後期ピーターソンには、ビル・エヴァンスハービー・ハンコックらからの逆影響があったのではないかと感じています。その理由は、バラード演奏における表現です。ハーモニーが変わってきていると感じるのです(僕だけかな?)。

言いたかったのは、ジャズを単線型発展 / 進化の図式で捉えることの危険性です。油井正一のジャズ史観の正当性如何など、いろいろ難しい問題もありますが、ジャズを単純な進化主義で捉えると、'60年代のフリーや電化マイルスでその目的=終焉 endを迎え、もう終わってしまったとも捉えられかねないと思っています。しかし僕は、ジャズには複数の完成態があり、例えばアート・テイタムというひとつの完成態と、それと相対的に別個にチャーリー・パーカーという完成態があり……というふうに、複数のエンテレケイアが同時的に並列的に存在していると思っています。

僕が一番注目しているのは、ドイツ在住の高瀬アキの『プレイズ・ファッツ・ウォーラー』です。まず聴いていて非常に楽しい。ジャズの起源(のひとつ)に遡りつつ、現代的な表現も覗かせる、とても完成度の高い作品だと感じています。ポストモダンがどうのといっても定義次第ですが、「様々なる意匠」をチョイスできるという意味でいうならば、高瀬アキポストモダンともいえますが、しかしモダンの極限なのかもしれない。その見極めないし定義が困難だと感じています。

文学でいえば『フィネガンス・ウェイク』、西洋音楽一般でいえばジョン・ケージに相当するのがジャズではアルバート・アイラーだと考えていますが、アイラーは別にジャズの終わりではなく、アイラー以降にも様々な多様な表現が可能だと思っています。

高瀬アキ aki takase / plays Fats Waller

プレイズ・ファッツ・ウォーラー

プレイズ・ファッツ・ウォーラー