棄教者の独り言

相変わらず西脇さんの考察に蒙を啓かれている。普遍宗教 / アソシエーショニズムの関係というのはとても興味深い。僕は柄谷行人思想=NAM原理を全面的に放棄し否定する者であるから、棄教者であるが、それでも面白かった。アソシエーショニズムが互酬=相互扶助を志向するものであるという、当たり前といえば当たり前の事実が興味深かった。NAMも、私見では、中央集権的 / 集権的 / 独裁的マルクス主義に反撥する、エンゲルスが「ユートピア社会主義」として貶めた理念(特にプルードン)への回帰・その反復という側面を持っていたと思うのだ。それは関本さんが強調する一面でもある。プルードンの思考は強力であり、現在でも読む価値がある。プルードンのアソシエーショニズムは倫理であるとともに、具体的な社会変革の提案であり、現在でもまだ価値があるといえる。

ちょっと話が飛ぶが、宗教が呪術を否定するという点だが、同様に僕は哲学は宗教を否定すると思う。古くはエピクロスがそうである。西脇さんの要約を読むと、呪術的な互酬=祈りを捧げれば神々から報われるという考えを否定し、敗北や苦難の言葉を語ったところに預言者の新しさがあったとすれば、エピクロス的哲学者は、神々の人間への無関心を語るだろう。人間の祈りを聞かぬ神々。スピノザの体系においても、そこで語られる神とは能産的自然であって、キリスト教的な人格神ではない。

柄谷行人も「死者との交換」を語っているが、そして宗教においてそれを見ているが、それが生きている者らの勝手な思い込みに過ぎないとしても、死者とのコミュニケーションというのは一考に価する。神秘主義者やオカルトの霊界通信などではなく、死者との何らかの対話ということだ。僕は大江健三郎の『懐かしい年への手紙』のラストシーンにその具体的な実現を見ている。死者との交換は、宗教の独占物ではなく、文学など芸術においてもそれは問われ得る。われわれが美なり崇高を感じるのは、死という乗り越え難い何かを芸術が描き上げるのに直面して、今生きている自分の自我の小ささを思い知るからである。

纏まりがないが、ここで一旦送る。

ちなみにid:shikuさんも『世界共和国へ』が面白かったと書いている。
http://d.hatena.ne.jp/shiku/20060718/p2

大江健三郎 / 懐かしい年への手紙

懐かしい年への手紙 (講談社文芸文庫)

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