Y批判

「つるや連合」で昨日の日記でのYに関する表現が差別的なのではないか、との批判があった。が、俺は警備員という職業自体を否定していない。っつーか俺の父親も警備員だし、警備員というのはそれなりに立派な職業だと思っている。俺が批判したいのは、大学院で挫折、警備員も続かず、農業に転ずるも駄目、という自分の人生の駄目さを柄谷行人という大他者への依存で埋め合わせ、その眼差しから他者を嘲る卑劣な心性だ。この点については、俺は妥協する気は無いし、表現を変更するつもりもない。

Yは、Q破壊のような柄谷行人とその盲従者らの愚行を「普通しません」と正当化し、柄谷行人を全面支持・擁護すると語った。自分の名声なり社会的な地位を失墜させるような行為を敢えてした柄谷行人は偉い、というのだ。だがこの理屈は倒錯している。事実は、その愚行で自身の信用自体が失墜するような馬鹿げた行為を敢えてし、自らの追従者らにもそうするよう教唆した、ということ以外ではない。勿論柄谷行人の狂信者になるのも、思想・信条の自由である。だが、それが自己内で完結せず、他者らを傷つけたQ-NAM紛争に関して、「政治的」な立場性の正当化抜きに単に好き嫌いで済ませることは許されない。

Yのように、俺が抜本的で狂信的な柄谷派だった時は擁護したり支援してくれても、立場を変えると批判的になった人は他にも多くいた。例えば鈴木健太郎もその一人である。彼は俺が誤った情報で暴れていた時に俺を支持し、俺が謝罪・自己批判に転じると俺を批判するようになったのだ。そういう倒錯や転倒はQ-NAM界隈には数多くあった。誤謬が讃えられ、真実が唾棄されるというような。そういうことはもうおしまいにしたいし、そうすべきだ。