DG1

最も簡単にいえば、DGの哲学は変身の哲学と言うことができる。差異の哲学とも、生成の哲学とも言うことができるが、差異も生成も哲学特殊用語なので、万人が分かる変身という言葉を敢えて使った。全ての人が、また人のみならず全ての生物個体が、生物個体のみならず全ての物が秘めている、変化可能性をとことんまで追求した哲学がDGの哲学である。

例えば、習慣をつけることによって私は私として個体化するが、習慣を組み替えることによって他へと変身する。記憶を参照することによって私は私という人格(人称)となるが、しかし参照システムをずらすことで他へと変身する。死の経験=限界経験や永遠回帰は前個体的で非人称的な特異性の乱舞の肯定であるが、それは無限に続く変身過程の肯定でもある。また、進化は個体的差異がどこまでいけるかの一つの実験である。自然環境は一つのシステムとして進化=変身の実験である。社会システムは自然環境に基づけられたうえでそうなのであるが、やはり社会体の変身=革命の契機を内在させた実験過程である。

近代の資本制国民国家自体が実験である。数世紀続いているからそれが自然にみえるだけだ。旧社会主義国家は対抗-実験であったと言うことができる。そして今は、新たに、「国家」という枠組みそのものを揺るがすような世界秩序の再編の予感が、ネグリ=ハートらの『帝国』に綴られている(が、予感はいまだ予感であり、世界はいまだアメリカ帝国主義=単独行動主義に大きく制約されているとはいえ)。

「人間」という形態も、労働、生命、言語によって条件づけられた実験的で過渡的なものであり、他へと変身していく契機を秘めている。ニーチェ的超人の到来については、慎重に吟味すべきだが、とにかく次々に新たな自己=集団的(私はむしろ「習慣的」と言いたい)主観性が生産され続けている。DG以後、柔軟で多様な主体がデフォルトになった。他へと開かれ、外部に身を曝し、絶えざる変身を続ける過程としての存在、それがDG以降の主体のありようである。