NAMで過ごした一季節 Carl Cassegardに/攝津正(元NAM副事務局長)

はじめに

NAM New Associationist Movementとは、21世紀初頭の日本に存在した、文芸批評家の柄谷行人が創設した左翼集団である。それは2000年に結成され、2003年に解散した。今回、社会学者のCarl Cassegardが私にNAMのいきさつを説明して欲しいと求めたことをきっかけに、ごく簡単にではあるが、NAM体験を振り返ることにした。

私は、NAMが「NAM」と名乗る前、即ち「アソシエK」と称して活動していた時期のことを直接は知らない。だから、その時期のことは盛り込んでいない。が、アソシエから分裂してNAMを創設した柄谷行人には、ヘゲモニー掌握という強い政治的動機があったことは明白である。

また、『重力』編集会議の鎌田哲哉森谷めぐみは、Q-NAM問題に関する詳細な資料と論文を準備しており、近々『重力03』として刊行される予定である。これは、NAMという特殊ケースから、社会運動一般に通用する普遍的な原則なり理念を抽出しようとする貴重な試みであり、是非一読を勧めたい。

私がNAM(の原理)の存在を知ったのは2000年9月17日のことである。 http://www.fastwave.gr.jp/diarysrv/realitas/200009b.html#20000917 私は地元の図書館で何気なく手にした文芸誌で柄谷行人の講演録を読み、帰宅して「NAM」で検索したらNAMの原理のホームページが出てきたというわけだ。私は、NAMの原理という言説を熟読吟味し、興奮と多大なる期待をもってNAMに入会した。が、私は、最初の会合に出ただけで、すぐにNAMを辞めようと考えた。その理由は、当時、スペースAKを経営する空閑明大 http://www.arsvi.com/0n/spaceak.htm や当時のNAM事務局長・乾口達司 http://www3.kcn.ne.jp/~inut/index.htm らNAM大阪と、小森陽一 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A3%AE%E9%99%BD%E4%B8%80太田出版社長(当時)の高瀬幸途 http://www.ohtabooks.com/著作権を専門とする弁護士・柳原敏夫=朽木水(朽木水はNAMでのペンネーム)、飛弾五郎、蛭田葵、文学研究者の倉数茂 http://d.hatena.ne.jp/shiku/ 、穴山順子らNAM東京が対立していることを知ったからだった。そして当時、理不尽にも柄谷行人はNAM大阪を支持していた。柄谷行人は、情から、空閑明大に数百万円も出資し、スペースAK開設を実現させた(彼の意には沿わない展開であったとしても)。そして、乾口達司の献身的な貢献、実働に言及し、NAM東京の民主的な要求を抑圧したのである。ここでの問題は、NAM会員登録を巡る瑣末なものだったが、空閑・乾口らはNAMを「党」的なもの、中央集権的で民主集中的?なものと看做していたのに対し(だからこそ彼・彼女らは自分らが「センター」であることはあんなにも強調したのである)、それに対しNAM東京のほうは、市民運動型の開かれたネットワークを志向していた。ここにおいて既に、柄谷行人があんなにも強調していたコミュニズム/アナーキズムの二律背反が生じており、且つそれは実際上解決不能だったのである。

私はNAM東京のメンバー、特に、柳原敏夫=朽木水を人間的に信頼したことから、NAMに留まった。そして、千葉啓太らと共に、「読み書きパソコン」と称して、初歩的なパソコン講座を催し、飛弾五郎や山城むつみらと共に『NAM原理』連続読書会を催した。読書会では、NAM原理に問題性があることが露呈された。端的に言えば、「general boycott」などは可能なのか? 可能だとして、それが戦争を抑止するほどの力があるのか? 結局911同時自爆事件とその後のアメリカの「報復戦争」は、反戦運動としてのNAMの根本的な無力を露わにした。

2001年正月、柄谷行人は強攻策に出た。それまで支持していた空閑明大らをNAMから排除したのである。具体的には、NAMセンター事務局の大阪から東京への移転を「輪番制」(それはNAM原理には書き込まれていなかった)を根拠に実行し、反対する者らをMLから排除したのである。これは、NAM内部の抗争におけるNAM東京=民主主義的市民主義派の勝利であった。が、これは禍根を残した。つまり、組織正常化のプロセスそのものが民主的に行われず、暫定代表としての柄谷行人の独断と強権をもって為されたことが、NAM総体に柄谷行人への依存を深めたのである。NAM原理の恣意的な解釈やその暴力的な適用は、後のQ義務化、Q-NAM紛争などにおいても繰り返されたが、これはNAMに本質的な病いであったといえる。

関西ブントや赤軍などと繋がりがあった空閑明大一派を排除したことで、NAMは既存左翼から分離され、純粋化された。NAM原理を聖書とするプロテスタンティズムのような或る種の信仰が生まれたのである。それを担ったのが、京都の杉原正浩ら「理論」好きのNAM会員であった。しかし、実践的にはNAMは無であった。そして、「NAMは行動しない」などといってその無為を正当化したのである。

NAMにとって唯一の「行動」、それは地域通貨LETS-Qの実現と普及であった。NAM原理の左翼的言説としての新しさは、何よりも、オルタナティブな経済圏の構築による漸進的で非暴力的な革命の実現を訴えたことにあるのだから、それは当然だった。が、NAM会員は任意で自由意思でQに加入するのではなく、義務化され、強制的に加入せねばならないことになったのは、やはり柄谷行人の強い介入があったからだった。NAMとQとは別組織である、という建前を貫くなら、Qには自由参加にすべきであったが、当時の雰囲気はそれを許さなかったのである。

そして最後に、Q創出からおよそ1年後のQ-NAM紛争がくる。これは、Q-hive(Q管理運営委員会)内部の紛争、つまり代表団(西部忠宮地剛穂積一平)と登記班(茨木彩、後藤学、西原ミミ)の対立に端を発するが、それが全面化したのは、京都の南無庵で催されたオフライン会議に、予想外に柄谷行人が出席し、徹夜で西部忠を問い詰め、宮地・穂積を排除するよう執拗に説き、西部がそれを拒んだためである。柄谷行人は、近畿大学への西部忠の招聘をキャンセルし、それを北海道大学に通知した。西部忠はNAMを退会した。その後に起きたのは、幾重にも及ぶ泥試合である。先ず私は、「NAMの原理の原理主義者」として西部忠を糾弾し続けた。が、柄谷行人が急に態度を変え、Qは理論的に駄目なので放置し解体すべきだとの意見に変わったので、私や柳原敏夫=朽木水らが中心になっていたQ改革グループ=amour-qの存在は宙に浮いてしまった。その後、柄谷行人は、倉数茂、生井勲、私にQを直ちに辞めよ、さもなくば「絶交」するとの脅迫メールを送り、実際に倉数とは絶交した。また、これはNAM解体後のことだが、山城むつみとも絶交したということを、柄谷行人本人がさも自慢げに語っていたので、私は腹を立てた。人間をここまで愚弄することが、どんなに偉い人であれ、許されないと思ったのである。また、柄谷行人は、私に向かって、NAMは「お手並み拝見」だったとも言い放ち、私は激昂した*1。かくも多数の人の献身的な善意なり努力を無にするそういう傲慢な態度が私には許せなかったのである。

以上が簡単に振り返ったNAM私史である。NAMは多くの異例で特異な出会いをもたらした。そのこと自体は評価すべきだろうが、社会運動、革命運動としては極めて脆弱だったと言うほかないだろう。今、元NAM会員らは、それぞれの持ち場で、反戦なり環境運動なり農なりに取り組んでいる。NAMの再建は成らなかったが、NAMに参加した当初の志はまだ、各人の裡で生き続け、燃え続けているはずである。私もまた、その例外ではない。

*1:柄谷行人は、会話中何度も執拗に繰り返し、「俺みたいな偉い人が」と口走っており、それはいささか滑稽な姿ではあったが、「ユーモア」だなどとはいささかも思えず、単に醜悪なだけだとしか感じられなかった。「フレデリック・ジェームソンですら俺が1分怒鳴ればハハーとなるのに、西部は…」と彼は怒っていたが、それは端的に権威主義的で夜郎自大な傲慢な態度である。作品においては鋭く輝かしい人が、実際の生活においては人格的に破綻しているという場合が多いと言われるが、柄谷行人の場合もそのような例の一つであると評することができよう。