やっと一日が終わった!

朝起きて図書館に直行し、ドゥルーズ及びドゥルーズ関連書籍10冊借りてくる。宇野邦一ドゥルーズ 流動の哲学』は丁寧な読解で参考になった。ドゥルーズ『批評と臨床』は内容、翻訳ともに秀逸。河出から出ている『ドゥルーズ 没後10年 入門のために』(これははまぞうやおすすめレビューで検索しても出てこない)も読んだが、ドゥルージアンって多いんだな、と複雑な気分になる。まあだが、内容は面白く、いろいろと勉強にもなった。

電車の中で夢想に耽る。岡崎乾二郎について書いてみたらとか、いろいろ…。エッセイの冒頭は決めてある。NAMで一緒だった文芸批評家のKが或る飲み会の席で、「僕はこれまで天才に3人遭ったことがある。柄谷さんと岡崎さんと攝津さん」と言った、という笑えるエピソードが一つ。やはり NAM時代、何故か浅田彰のようだと称えられていたという間抜けなエピソードが二つ。勿論私は、柄谷行人岡崎乾二郎浅田彰のような「天才」ではないし、彼らのような深く広い知識・教養、他に代替できない審美眼を持ってはいない。私が一瞬人に誤解を与え、驚嘆すらされるのは、その情報処理の余りの素早さのためである。が、それは自慢に値しない。それは想像力=創造力の欠如と凡庸さの裏返しでしかないからだ。すが秀実はKの誤解を笑っていた。当然だろう。

それとは別に、何故か私に感情転移し、過大な幻想を抱いてはじきに幻滅し批判的になるといったタイプの人も何人かいた。が、私は彼らに対しては辛辣である。彼らは勝手に幻想を拵え、私がその幻想通りの存在でないからといって私を責めた。が、そんな児戯に誰が付き合えるだろうか。私は私でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。それが、端的でシンプルな真理である。

今日出掛けたのは、都庁前駅の近くにある公共施設で、野宿者関連の集会の実行委に出席するため。会議は疲れたが、飲みなどがなかったのでそれほど消耗しなかった。帰宅後、この日記を書いている。日中は芸音でのプレカリ労働など、なかなか多忙でよく働いた(笑)一日だった。