ドゥルーズ(ドゥルーズ=ガタリ)はマルクスをどう読んだか?

ということについて考えていた。後期の美学的で単純な批判、というより嫌悪感の表明(『哲学とは何か』と『シネマ2』)よりも重要なのは、『資本主義と精神分裂症』(『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』)における資本のシニシズムと客観的な偽装に関する議論である。正直、マイミク・でぶさんが廣松渉に関して批判していたように、(ドゥルーズ=ガタリは「物象化」という表現は用いていないものの)資本主義の内的矛盾を「認識」の問題に矮小化してしまう傾向があるのではないか、と感じた。

ドゥルーズ=ガタリは、ベルナール・シュミットという、近代経済学からマルクス主義に転向した人の著作を頻繁に参照しつつ議論を進めている。私はベルナール・シュミットの本をコピーで持っているが、悲しいかな語学ができず、宝の持ち腐れとなってしまっている(笑)。