不安定インテリと亜インテリ

32年生きてきて、シンプルな結論に達する。「自分を信じること」。自分の「可能性」や「成功」を信じるのではなく、ありのままの自分(の生)を信じ肯定すること。これは運命愛だ。私は私である、ということが厭だからといって、他人、例えばドゥルーズなりモンクなりになれるわけではない。私は私自身の歌を歌うほかなすべきことはない。たとえそれが調子外れの拙い歌であったとしても、他に取り替えがきかない唯一のものであるならば、良いではないか。

国立のヘーゼルナッツ http://blog.goo.ne.jp/hazelnuts-studio に行く。集まった人と討論するが、メーデー集会での矢部史郎の「アンテルプレケール」(不安定インテリ)の議論に接して、いろいろと考えた。先ずネグリその他が指摘する、労働が根本的に「知的」なものに変容したという議論に関して、資本制企業が追求する「知」とは理系のもの、例えば分子生物学的な知やコンピューターのプログラミング言語の知であり、それに対して「われわれ」が所有しているのは基本的に文系・人文系の知なり教養である。また、アンテルプレケール的な膨大な層があるとして、それは賃労働(例えばコンビニやマックでの労働)に自己実現を求めるのではなく、その端的な外部、例えばDJスキルを磨くこと(『魂の労働』のあの名高い例)、ストリートダンスを踊ることなど一銭にもならない「自由活動」にこそそれを求めている。それはネオリベ的なエートスとは微妙に、しかし決定的に違うのではないか。ネオリベ的なエートスの本質はシニシズムであり、「真に」価値があろうとなかろうと、市場で売れる(交換される)ことのみを価値として追い求めるものだから、それと市場を放棄し離脱し、「自己価値化」を目指す営みとは明確に区別される。

が、私は、この議論について考えつつ、かつての昭和初期の「亜インテリ」という議論を想起していた。1970-80年代に進行した知の大衆化とは規模においても質においても比較にならないにせよ、大正から昭和初期にかけても知の大衆化があった。例えば円本の発行など。それに呼応して、「真正の」知識人=エリートでも「自然で素朴な」大衆でもない、何かいかがわしい、或いは胡散臭い贋者としての「亜インテリ」が登場するのである。そして私は、 21世紀初頭の日本という地域と時代において、「われわれ」の多くは良くも悪くも「亜インテリ」であるという端的な事実を受け入れる必要を感じている。何が言いたいかというと、「われわれ」の多くが高等教育を受けているといっても、それが「真正な」=「神聖な」教養を身につけていることの証しにはならないということである。「われわれ」の持っている知識なり技術の大多数はコピーなりシミュラクルである。「われわれ」はあり合わせの材料でDIYし、自らの思想なり生活を構築している。そして、事実、それで十分なのである。後は、贋者であるということからくる自己否定的感情を捨てればそれで十分だ。贋者であるということのいかがわしさ、胡散臭さを身に引き受け、肯定し、生きることで十分なのだ。「われわれ」は確かに「真の」知識人ではない。だが、それが何だというのか? それでも「われわれ」は生きているし、考えているし、話しもすれば書きもするのである。

夕方、あかねに移動し、パムナイトに出演。そこで楽団タクマニア。 http://takumania.gooside.com/ を聴き、感動する。ポップだし、しかもポップなだけではないところに魅力を感じる。私はこのバンドが好きだ。300円でCDも購入した。タクマニア。が今後発展し、多くの人に聴かれるようになることを願ってやまない。

パムナイト(最終回)出演者:

  • 中沢建&根元延浩
  • 楽団タクマニア。
  • らるふ
  • 攝津正(DJ兼)

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

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