神経病養生記

初めて精神科に行ったのは恐らく高校時代だ。一度だけ行き、暫く経って訪れたら潰れていた。私は当時、クラシックピアノを北習志野まで習いに行っていたが、そのピアノの先生が「攝津君は様子がちょっとおかしいから精神科に罹ったほうが良い」と勧めてくれたのだ。私は、自覚は無かったが、他者から見ると変な子どもだったらしい。そういうわけで精神科に行ってみたが、最初の出会いは大した実りをもたらさずに終わった。

大学から大学院に進む頃、私の抱える矛盾は日々大きくなっていった。そもそも早稲田大学に受かったことが僥倖だったが、その幸運に縛られ、優秀であらねばならぬという強迫観念に悩まされ(実際には「優秀」などではないのに)、「かくあらねばならぬ自分」と「現実の自分」が乖離しているのを感じていた。大学時代の私の心理は異常だったと思う。講義に行っても、ノートも取らずに、ノートに意味不明の図形?を描きつけ続けるという奇行があった。大学院に進んだ時には、一生大学から出ないと決意したが、しかしその決意は、現実の壁に脆くも崩れ去った。私はドゥルーズ『差異と反復』の邦訳者・財津理から「詐欺師!」と罵られ、博士課程進学試験にも受からず、失意のまま大学院を去った。

しばらく老いて病んだ飼い犬の看病をして暮らしていたが、そのうち人に勧められてさいたまにある進学データシステムという会社でパートタイマーの仕事をするようになった。データ入力が主な仕事であった。私が「不安障害」と呼ばれる病いを発病したのは、この職場に勤めている時であった。911 同時自爆事件の直後、私は強い罪責・不安に駆られ、精神的に酷い混乱に陥った。社長の奥さんが私の異常に気付き、会社の近くの精神科に連れて行ったが、保険か何かの関係で診て貰えず、自宅に最も近い精神科であった高根台メンタルクリニックに通うことになった。診断は、不安障害(不安神経症)であった。私は、自分にとって高いところにいる人物像に対して、畏れを抱き、その視線からどう評価されるかに関して恐れ慄いていたのである。いわば超自我との関係において病んでいたわけだ。それから定期的に服薬・通院するようになり、やがて初期の急激な不安発作は影を潜めた。しかしその代わり、私は極めて重篤で深刻な希死念慮に襲われるようになった。自分が駄目で無価値な存在である、という冷徹な認識が、私に死を促すという時期が長く続いた。そして医者も、そのことに対して、全くなす術を知らぬかのようだった。私が死にたいと訴えるたびに家族関係は悪化し、私は或る日思い切って転院を決意した。新しい病院として選んだのは、爽風会佐々木病院だった。

佐々木病院には著名なラカニアンがいるが、彼は新患を取らないので、私の主治医はH先生という人になった。H先生は私に対して、パキシルをメインドラッグとして処方し、認知療法という新しい考え方を教えてくれた。以後、私は短期間で回復し、満ち溢れるばかりの自信と気力の充実・充溢を覚えるようになった。前かかっていた、高根台メンタルクリニックの赤川先生が悪い医者だったわけでも、佐々木病院のH先生が神の如き名医であるわけでもないと思う。決断し、環境を変えたことがプラスに作用したのであって、その幸運を喜ぶべきだと思っている。また、私は全国「精神病」者集団の山本真理が勧めていた神田橋條治の『精神科養生のコツ』(岩崎学術出版社)を暗記するほど読み返し、日々実践に努めていた。

最も症状が重い時、私はただ横たわり寝ることしかできなかった。本を読んだりCDを聴く気力も無いので、繰り返し繰り返し同じCDを暗記するほど聴き込んだ。それはUAの極北まで進んだ傑作『sun』だった。無調に近いとすら思われる歌声に私は身を委ね、休息した。私の神経は徐々に回復していったに違いない。

もう一つ忘れることができないのが、究極Q太郎との出会いである。私は彼から、人生の作法のようなものを学んだと感じている。それは脱力ということである。状況がどんなに悪かろうと、リラックスして気楽にやるということを究極の生き方と詩から学んだ。究極の誘いで「あかね」スタッフになったことも、自信をつける上でとても大きかった。私が主催するイベントはいつも大入り満員で、店から人が溢れるほどに盛り上がり、私は大いに満足した。それも究極と彼の妻トミーがサポートしてくれたからできたことである。私は、理想的な態勢で、自分のやりたいことをやりたいようにやることができた。

バンドのことにも触れておくべきだろう。最初、ファンキー・シーズというバンドは私の母がリーダーであり、「攝津照子ファンキー・シーズ」と称していた。が、或る時、偶然私が練習に居合わせて、母に向かって交替してもいいよ、と言ったのだった。それ以降、ファンキー・シーズは私のバンドになった。バンドを始めて最初の頃、指が回らず苛立ったり、ヒステリー症状で全身がだるく痛んで辛かったことをよく覚えている。が、私はバンドを継続し、今ではそれが主要な喜びの場に変わっている。私はバンドを完全に掌握し、思う通りの音楽を創れている。尤もそれでも大したことはないかもしれないが、初期に比べれば大きな進歩であることは言うまでもない。そういう状況で、私は音楽を楽しみ、その快楽で神経を癒し、徐々に回復しつつある。家族との関係も良好で、今私は最高に幸せだ。幸せは長くは続かないかもしれないが、とりあえず「今」幸せであることを大切にしようと思っている。

精神科養生のコツ

精神科養生のコツ


SUN

SUN