津軽三味線ライブ&ベーシック・インカム集会

今日は、二和公民館講堂で多数のお年寄りを前に、先生らと3人でライブ。次いで、船橋の医療センター近くの老人ホームを訪問し、1時間強、三味線とピアノを披露したが、大受けだった。お年寄りが好む曲をやれるし、私自身もお年寄りが好きだから、基本的に良い関係が築ける。

その後、上智大学に移動し、ベーシック・インカム基本所得)を考える集会にフリーター全般労働組合として参加し、求められていた発言をする。他の人に比べて少し硬かったかな、と思うが、事前に原稿を用意し読み上げたので仕方ない。

電車内で『自由と保障』を読了。基本的によく整理された分かり易い入門書だと思うが、こういう学者先生の言説には懐疑的にもなってしまう。私は、LETSの流行と衰退を目の当たりにしてきたので、一時的なブームなり熱狂では駄目だということを強く感じている。

帰宅後少し考えたが、LETSの長所が集権を批判できるところにあるのに対し、ベーシック・インカムは国家権力を奪取しなければ、或いは国家権力を握っている政治家を動かさなければ実現できない、という短所があるように思う。人命は尊い、ならばお金のために人の命が失われることはあってはならない、というのは一見正論だ。だが、次のような罠がある。社会の大多数の人が、「人命は尊い」という建前を実は信じていない、というような罠が。もし、人命は尊いというのなら、では何故近代国家は戦争をするのか。多数の国民の命を失わせるようなことをするのか。ダグラス・ラミスは「民殺」という形容を提案していたが、近代国家の暴力装置は、国民そのものを殺してきた。これは端的に、価値ある命と無価値な命を誰かが選別し、失われても良いと判断された命を消費するという身振りでなくて何だろうか。

繰り返せば、「人命が尊い」とは社会の多数は思っていない、少なくともこの社会で権力を握っている者らはそう思っていない。彼らは、自分らの守られるべき命と、他者の失われても良い命とを、差別し選別している。そして、失われても構わない命に関しては、死ぬがままに放置するのである。

ベーシック・インカムの思想と実践に弱点があるとしたら、それはフリーライダーの続出によるモラルハザードだというよりも、国家や資本の権力者の非情さを甘く見ているという点にあるのではないだろうか。彼らは弱者や劣った者(劣っていると彼らが看做す者)が死ぬのを何とも思っていない、そればかりかそれを助長しようとする。そうした者らを相手に、政治的・社会的に争い闘っていくのでなければ、生存のための給付は勝ち取ることができないように思う。

自由と保障―ベーシック・インカム論争

自由と保障―ベーシック・インカム論争

私の発言内容(原稿)は以下の通り。

ベーシック・インカムに関して、フリーター全般労働組合から副執行委員長の私が発言させていただきます。

まずベーシック・インカムという提案のラディカルさを私達が極めて高く評価している、ということを申し上げたいと思います。プレカリアート、不安定な生を強いられている人達にとっても、ベーシック・インカムは是非必要なものです。というのも、就労から排除され、生活保護などの何らかの公的扶助でしか救済できないのに、稼動年齢層であるなどの理由で生活保護の対象から排除されてしまう多くの人々が存在するからです。また、例えば精神障害障害年金も、支給に関しては厳しい選別があり、主治医の協力などがないと受給はできません。このように、生活保護障害年金といった旧来の福祉システムが選別的であるのに対し、ベーシック・インカムはそういった選別の政治を廃棄し、無条件で全ての人に分け前を与える主張である点で、非常に重要な一歩を踏み出したと感じています。

ベーシック・インカムが生を労働から解放するヴィジョンを持っている、ということも重要です。労働のありよう、その資本との関係が根本的に変容し、かつてのようなフォーディズム体制がもはや維持できず、ごく一握りの高度で専門的な技術を持った正規労働者と、それ以外の膨大な非正規労働者に分岐しつつある現在、大多数の人の人間らしい生活を保障するものとして、ベーシック・インカムは重要だと私達は考えています。それは資本主義の展開に応じて生じてきた、社会的排除に応答するものであると私達は考えます。社会的に排除され、棄てられた人達の生を無条件で肯定する思想として、ベーシック・インカムは重要です。

とはいえ、私達はベーシック・インカムの提案に対して少しの疑義も覚えないというわけではありません。まず第一に、私達は労働組合ですから、ベーシック・インカムが生を労働のくびきから解放するという時、その生と労働との関係を再考する必要を感じています。実際には奴隷的苦役なのに、労働を美化する必要はいささかもないわけですが、自由な生/苦しい労働という枠組みで考えることは、事態をいささか矮小化・単純化し、現実を見誤るものではないか、と危惧せずにはいられません。

第二に、ベーシック・インカムの提案が、例えばネオリベ勢力などから出される場合、既存の医療・教育などの福祉制度の切り崩しと自己責任化とセットで出されてくる危険がありはしないかということが懸念されます。既成の福祉は、現物支給的というか、教育なら教育、医療なら医療サービスが保障されるというものでしたが、お金を分配し、その使途には介入しないというベーシック・インカムの導入に際し、それと引き換えにそうした現物支給的福祉を撤廃するといった提案がなされないとも限りません。私達は特に医療に関しては、最低限の生存を担保するものであるが故に、公的に維持されるべきであると考えます。

このような幾つかの懸念がありつつも、ベーシック・インカムという斬新な提案には、私達は全体的には肯定的な興味を抱いています。「働かざるもの食うべからず」の旧来型の道徳から解放された地平で、私達の生がどのようなものになり得るかというのは非常に興味深い問いです。生が真に自律的なものになる時、前代未聞の活動や表現が生み出される可能性もあるのではないでしょうか。そのような可能性に期待していることを申し上げて、私達の発言を締めくくらせていただきます。