あかね或いは人が集まるということ、または「21世紀の『だめ』」を巡って(攝津正 Tadashi SETTSU a.k.a. "Linda")

私があかねに関わり出したのは、NAMが解散した後のことだから、約4年ほど前ということになる。きっかけは杉田俊介らと共に究極Q太郎インタビューをした際、私が仕事も辞め家に引きこもっていると語った時、究極からではあかねのスタッフをやってみれば、と助言されたことだった。

はじめ私は、土曜深夜(零時〜翌朝6時)の枠で女装してカウンターに入っていた。「リンダちゃん」という仇名はその時以来のものである。どうしてそんなことをしたのか、今となってはよく分からない。が、人との交流や出会いを求めていたのだろうとは思う。私は、あかねで「セックスワーク(売春)をやりたい」と思っていたが、幸か不幸か、私に性的魅力がなかったためそれは実現しなかった。

その後、さんだー杉山と組んで土曜や月曜の当番に入ったり、究極Q太郎やトミーの補佐を受けて水曜のイベントを仕切ったりしながら、あかねとの関わりを続けてきた。大きかったのはやはり、二度目の解雇・失業である。私はバイトを辞めて(辞めさせられて)、あかねでのイベント=興行に精力を注ぎ、それにやり甲斐を感じるようになっていた。が、究極とトミーがもろもろの事情で抜けて、私は「究極がいないあかねに意味があるのだろうか」などと自問するようになった。

世の中どこででも、本音と建前があるものだが、あかねでもそうだったと思う。みんなが対等な共同経営のフリースペースという理念が建前だとすると、究極の多大な貢献と自己犠牲に依存した「究極の店」というのが本音だったと感じる。その究極がスタッフから抜けて、あかねに関わる誰しもが自らの立ち位置なりを自問する必要に迫られたのではないだろうか。勿論私も例外ではない。

あかねなりの場に人が集まるということは、何を意味するだろうか。一言でいえば、そこに「開け」なり可能性が生じる、ということだと思う。それは良い面だけではなく、例えば(性的な)暴力やら紛争がそこで生じる可能性が開かれる、ということでもある。実際、あかねでは度々(性的な)暴力や紛争、ハラスメントが起き続けてきている。人が、それも良く言えば個性的で特異な人達が多数集まるということは、危険極まりないことでもある。思想、言葉のレベルでも、身体のレベルでも、傷つけ/傷つけられる可能性が開かれるからだ。その中で、人は知らず知らずのうちに暴力を振るう加害行為の主体ないし差別者になっているかもしれない。例えば私は、ピエールや勉強師を公然と批判しているが、それが「政治的」排除ではないとは言い切れないように思う。あかねという「だめ」な人が集う場ですら、その中でさらにだめな者が差別化され、嘲弄されたり排除されたりするということは、どう考えればいいのだろうか。弱者が弱者を苛めるという不幸な構造──日本社会の縮図──が再生産されている、ということでしかないのだろうか。

個性的で特異で多様で変態であることは、肯定されるべきだと思う。が、それが他者を傷付けたりハラスメントになるような場合に問題が生じる。セクハラやマイノリティ差別発言、さらには他者を不快にする言動等である。オープンなフリースペースといっても、「何でもあり」ということではなく、そこには自ずから慣習法(ノモス)が自然発生的に生じてくる。例を挙げれば、例えば勉強師は、相手構わず他者の来歴だの経歴を詮索したり、場の雰囲気なりをわきまえない言動をして問題になる。私が経験した例でいえば、イラク戦争のワークショップをやっている時に彼が来店して、「拷問で目玉が抉り出された残虐な写真が見たい」とはしゃいでいたことがあり、私はものすごく不快になったので思わず「勉強師は出入り禁止だよ」と告げた。つまり場の主催者として私は権力を行使したわけだ。権力を行使する/されるという関係の網の目に出口はなく、誰しも無垢ではあり得ないから、私はそこで決定的に勉強師に対して排除的な立場に立ったことになる。が、私はそのことを間違いだと思っていないし、後悔もしていない。勉強師は、多数の人が拷問され殺される悲惨な現実を批判的に捉えようというワークショップに来て、単なる好奇心(残虐な画像が見たいという欲望)に基づく発言をしたのだから、批判されて当然だ。だが、排除されるべき者とそうでない者の境界線はどこにあるのか、というと案外難しい。あかねに慣習法(ノモス)があるといっても、複数の人間の間の事前の暗黙の合意があるわけでもないし、そもそもそこで成立している法?は多元的だ。例えば或る人が、或る曜日には出入り禁止だが、他の曜日ではそうではない、といったことがある。それはあかねで、各曜日毎の当番の一種の自治制?が認められてきているからである。あかねでの倫理とは、場の主催者の本性 natureに適合するか否か、といった倫理であり、それは一歩間違えれば恣意的な選別なり排除にも繋がりかねない。誰が受け入れられ、誰が排除されるのかはあかねでのミクロ政治の力関係に基づくが、それは自明なことではないし、常に問い返されるべき事柄である。以前私があかね憲章とあかね監査委員会の設置を提言したのは、その観点からだ。

あかねは〈共 common〉を実現しようとする実験である。政治的左翼もそうでない人も、その実験の過程に身を置いているわけだ。あかねはアナーキーだが、そのアナーキーは自己統治を否定するものではない。プルードンも強調していたように、アナーキストのアソシエーションには法があり、それは実定的な契約に基づくものだ。契約というと硬い印象だが、言葉を尽くしての話し合いの精華と言い換えてもいい。人が集まり、語り合うなかで自ずから生成するルールが、アソシエーションの法なのだ。そして場の主催者には、場で生じるもろもろの政治的紛争に関して一定の責任がある。オープンな場は、暴力や差別にも開かれているだけに、場をどういう性格のものにしていくか、その練り上げが主催者や参加者に問われるのだ。その練り上げの過程が、あかねで「交流」と呼ばれる活動であろうと思う。規則はあらかじめあるものではなく、「交流」を通じて練り上げられ仕上げられるものだ。それは超越的な法ではなく、内在的な慣習であって、それを練り上げる過程そのものが実定的な自由の実現である。