自由と必然 続き3

思いつきを述べれば、セクシュアリティについて言われる本質主義/構成主義の対立は、決定論同士の対立だということだ。生物学的決定論社会学決定論かの違いに過ぎない。「自由」ということを考慮に入れると、決定論ではなく、倫理の領域に移行する。

フーコー流に言えば「自己」、ドゥルーズ=ガタリ流にいえば「襞」の問題として、「懸命にゲイにならなければならない」、言い換えればマイナーなものへと生成しなければならないという倫理的課題が出てくる。フーコーは、権力諸関係の外部はないというテーゼを考え詰めて、行き詰まりに陥った。そこから晩年の転回が生じている。権力諸関係の外部はないというのは、或る意味スピノザ的なテーゼである。もろもろの様態と様態変化は完全に規定・決定されたものであって、一切は必然である、云々。しかし、自由ということを考えると、別の平面に移行しなければならなくなる。

…自信なし。この項未完。