自由と必然 続き

サルトル

存在と無 下巻

存在と無 下巻

で人間は自由の刑に処せられている、と言った。サルトル実存主義的な自由の概念は、デカルトスピノザ、カントのそれとは異なっている。古典的な哲学者達にとって自由とは、必然的な法則を理解し、それに従うことだった。だが、サルトルにとっては、現に生きているこの私がどう行為するか、が問題になるのだ。

サルトルといわゆるフランス現代思想構造主義ポスト構造主義)の関係は、デカルトスピノザの関係に似ている。サルトルが主体(対自)の自由を強調したのに対し、構造主義はその主体そのものが構造に規定されているということを語ったわけだが、それはスピノザ的な必然性の認識に似ている。ポスト構造主義はカントに似ていると言うべきだろう。つまり、もう一度、「超越論的」な仕方で主体の自由の問題を把握する必要が出てきた、ということだ。フーコードゥルーズ=ガタリは「自己」なり「襞」といった概念でそれを展開している。科学(構造主義)の後に、科学に還元し切れない倫理の問いが出てくる、ということだろう。