自由と必然

古くはストア派エピクロスの対立以来、新しくはスピノザライプニッツ以降、カントを経て実存主義やら現代思想に絡んでくる問題として、自由と必然の問題がある。

数学や論理学の対象である、矛盾を含まず考えられる、というだけの存在ではなく、われわれが現に生きている事実性の領域でも、無限の知性(神のそれのような)を前提すれば全て理由なり根拠が見付かる、という前提を立てるなら、一切事は必然として把握されることになる。とすれば、人間には「自由」はないのか。

カントは

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

で自然界(現象界)と叡智界(物自体)を分けることでアンチノミーを解決しようとしたが、私にはカントの「解決」はよく分からない。カントは人間の意志の自由を系列を「自ら始める」ところに見ているのだが、しかしそれもやはり必然的に決定されているのではないのか。

一切は必然的に決定されている、人間の有限な知性では全ての因果関係を見通せないためそれが分からないだけだ、という理屈は逆説を導くように思う。一切は必然的に決定されている、ということは、「一切は必然的に決定されている」と認識する私の存在も必然的に決定されている、ということになる。必然を理解し受け入れたり反抗する私もまた必然的に決定されている、ということをどう理解すればいいか。

ライプニッツによれば、或る個体に関して、主語を無限に分析すれば全ての述語が導き出される。例えば「シーザー」を分析すれば「ルビコン河を渡る」が導き出され、「アダム」を分析すれば「自らの肋骨からできた女を妻にする」「罪を犯す」などが導き出される、というわけだ。

ドゥルーズがヒュームやラッセルに見ている「関係の外在性」というのは、ライプニッツを論駁するものだと思う。関係はもろもろの項から独立している、というのは、例えば机の上にコップがあるという時、「机」の概念やら「コップ」の概念を無限に分析しても、机の上にコップがあるという関係性自体を導き出すことはできない、ということだろう。関係の外在性という考えは、事実性、偶然、出会いなどの一連のテーマと密接に関係するように思うがどうなのだろう。

関係の外在性という考えは、アジャンスマン(組み合わせ)という概念創造に連なっていくように思う。例えば蘭と蜜蜂の関係性。蘭-蜜蜂の組み合わせは出会いであって、蘭とか蜜蜂の概念を無限に分析しても導き出されるものではない、

ううむ…自信ない!