体験を経験に純化する、反省・総括・自己批評の草の根の営みを!

MLにも投稿したが、僕はQ-NAM問題の批判的総括は少しも「手遅れ」ではないし、むしろ今からより積極的・前向きに取り組むべきことだと考えている。例えば、紛争当時、京都登記班は労働が激務でメールが書けないことを口実にML会議=サイバー民主主義を退けていた。が、今はQの労働などやっていないのだから、幾らでもメールなりブログなりができるはずだ。ITに詳しくない、などというのも言い訳にならない。掲示板に投稿するのに何の技術も必要ないはずだ。また、公に発言したら2ちゃんねる直行、というのも言い訳になりはしない。2ちゃんねるでも、公開的なぶん、閉鎖的なNAMのMLよりましではないか? また、王寺賢太はかつて、複数のQ-NAM会員による反省の作業を提起したが、僕は彼自身が率先してそれを公然とやるべきだと思う。杉原正浩田口卓臣は、NAM総括をやると言っていたが、「今」やるべきだと僕は思う。時間がない、というのは言い訳にならない。何も長大な論文でなくても、短い言葉でもいいから、とにかくパブリックに発言し、責任を負うということが大切だ。蛭田葵のようにQ-NAMの全ての問題性から遁走しているような人達は話にならない。批判されるのが厭なら、運動に一切コミットしないことだ。公然たる批判には、公然たる反批判という言論で答えるべきなのであって、沈黙と逃亡は全く非倫理的というほかない。蛭田葵には、最も熱心にQ普及に狂奔していた過去があるわけで、そのこととQ解体に加担したことの責任からは逃れようがない。僕は彼が当時、オフの場でどんな言動をしていたか、つぶさに知っている。彼は柄谷行人に全面的に追従し、これからは市民通貨Lだ、などと言っていたのだ。そしてQ派を彼の周囲から排除した(王寺賢太、倉数茂、田口卓臣、渡辺彰吾)。それが柄谷行人の公然たるQ破壊と無関係なわけがなかろう、と思うのはごく常識的な判断ではないだろうか。