くじ引きの効用

くじの効果というのは、先ずもって偶然性の導入、そして無名性?の実現かな。誰もが選ばれる可能性がある、ということかしら。まぁNAMの実際の歴史は、柄谷行人の「所詮くじで決まった代表の癖に」とかいう「それ言ったらおしまいでしょ」的発言に象徴される如く、まるで理念を実現できず、裏切ってきたのではあるけれど。お話としては面白いね、というくらいのことでしょ。でも、事業とか経営なりをやっていこうという段階になったら、くじ引きでいいのか、という話は必ず出てくるよねぇ。それをどう考えたらいいのか。人間に能力や意欲の差異がある、というのは自明な事実。それを認めたうえで、なおくじ引きでやるのか、それとも立候補を重く見るのか、という意見の分かれ目が生じるね。

無名性というのは、LETSとも平行していると思う。取り替え不可能な著名人の言説ではなく、草の根の無名人による生産と交換を通じて醸成される信頼関係、ということだね。これは、理念としては今なお面白いと思う。例えば、今年参院選統一地方選があるけど、リアルな話として、ものすごいお金が掛かるわけ。それに、人望がないと出られない。ダグラス・ラミスが選挙というのは結局有力者(貴族)の支配に帰着するから、貴族政の原理なのだ、と書いていたけど、実際、お金なり卓越した能力なりがないと選ばれない仕組みになってしまっている。これがくじ引きであればどうか? 選挙資金は一切掛からない。また、平等に偶然的(笑)であり、誰もが権力を持つ可能性を秘めている。

というのは、今話題になっている、裁判員の制度に近いのかもしれない。実際NAMでも、最初に実現したくじ引きは監査委員会の選出だった。誰もが監査委員的な立場に立つ可能性がある、という意味では、日本は国家ぐるみNAM的(笑)になりつつあるのかもしれない。

けれど、例えば僕は頑固な死刑廃止論者だ。万一僕が裁判員に選ばれたら、宅間だろうと麻原だろうと絶対に死刑判決は出さない。そういう頑固な主張を貫けばどうなるか。国民感情なるものが噴出して、リンチに近い状況が生じ得るのではないだろうか。というようなことも、想像してしまう。