音楽を巡る草稿

Queer Linda Hem-tie Live
リンダちゃんの音楽地獄巡り〜掟破りの地球縦断ライブハウス道場破り

音楽フリースクール
皆様、はじめまして。私は攝津正と言い、10歳の頃から約20年間以上大衆音楽の実践を継続してきた者です。現在は、千葉県船橋市芸音音楽アカデミーの代表を務めています。

ささやかながら、音楽を聴き、音楽を思考し、そして生産、創造、表現する目的で小さな集まりを持つことにしました。皆さんに集まっていただいたことに心から感謝します。これから、拙いものではありますが、ほんの少し私が考えていることに付き合っていただければと思います。

音楽とそうでないものの境界
先ず、端的に、音楽とは何か、という問いから始めたいと思います。

この問いは実は厄介です。私達の大多数が身に着けてしまっている或る「自然」さ──それは日本語を話すことや日本人であること、異性愛であることや正気であることなどと同じように、少しも「自然」なことなどではないのですが──を疑ってみることなしに、この問いを考えることはできません。

大雑把に言って、私達の大多数が身に着けてしまっている「自然」と称される感性=美意識は、ほぼ全面的に西洋近代の徴しを帯びてしまっています。クラシック音楽と呼ばれる、或る狭い領域の音楽を音大や芸大で専攻した人だけが西洋近代に関わっているのではありません。演歌、童謡、歌謡曲、ジャズ、ロック、ポピュラー、Jポップなどを好んで聴く人なら、西洋近代、バッハ以降確立されてきた調性に一定程度支配されることを避けられないのです。

私は音楽を、草の根の民衆が繰り返し再-創造し表現する営為そのものとして定義したいと思います。それは空虚で、何も言っていない定義のように見えるかもしれません。しかし、根本的に考えると、音楽を定義するのにこれ以外の仕方はない、ということが分かります。

──「私達」が音楽だと考える「音楽」だけが音楽なのではありません。音楽は多数多様なものです。私達が音楽的だと考える旋律、和声、リズムだけが音楽的なのではありません。

──現代音楽においてはジョン・ケージ、フリージャズにおいてはアルバート・アイラーが或る「絶対」に到達しています。この人達以降の音楽は、どんなかたちのものであれ、その在り様そのものを問われることになります。

「耳」は簡単に作られる
「私達」の大多数が「自然」に持っていると思われる感性=美意識、即ち「耳」の身体性は簡単に作り変えることができます。嘘だと思うなら、一週間、聴き慣れない音楽に身を浸してみればいいのです。音楽の感じ方が容易に変わり得ることが実感できるはずです。

「私達」の大多数が「自然」に持っていると思われる感性=美意識、という表現をしました。回りくどい言い方になったのは、それが実はちっとも「自然」なものではなく、商業音楽の洪水の中で歴史的、社会的に構築されたものだということに自覚的であろうと志すからです。

私が先の表現で言い表そうとしたのは、簡単に言えば古典派-ロマン派的なものということですが、菊地成孔が示したように、ジャズの文法であるバークレーメソッドなるものがクラシックの理論の簡素化・通俗化であることからもすぐに分かりますが、それは私達が日常接する大多数の音楽を規定しています。私達は21世紀になってなお、大多数の大部分が、いまだロマン派の規定性を超えないでいるのです。そのことは文学領域でいえば、インターネットなどで極めて陳腐で通俗的なロマン的物語が流行りに流行ることと似ています(『電車男』や『世界の中心で愛を叫ぶ』など)。

私達がTV、ラジオ、CDなどで接する音楽の洪水の大多数は、調性のある、決まりきったリズムの音楽です。そのことから、アドルノが展開したような大衆音楽の全面的否定を導き出そうとは思いません。私は、草の根の民衆の個々人が、音楽を生産し、創造し、表現する力を持っていると考えています。しかし、私達がさしあたり「自然」と感じる音楽世界が、西洋近代の枠組みに全面的に規定された、古典派-ロマン派的なものであることは自覚しておく必要があります。

簡単にいえば、バッハ以降調性が確立され、ハイドンモーツァルトベートーヴェンが古典的な和声を創り出し、ロマン派の作曲家達はひたすら旋律と和声、そしてリズムを複雑化していきました。その流れを、最初に疑ったのは恐らくサティだと思いますが、本格的な解体を始めたのはシェーンベルクであり、それ以降、いわゆる「現代音楽」が調性なき後の音の組織化を進めていきました。

私達が生きている時代は、既に調性の解体が本質的には為されてしまっており、しかしなおかつ、日常の音楽経験の大多数においては、かつての音楽規則の貧弱なコピーのようなものに晒されて生活している、そういう時代です。

私は「耳」の身体性は簡単に作り変えることができると言いました。それは例えば、味覚のアナロジーでも語ることができます。「舌」を組み替えるのは容易いことです。例えば有機食品などを食べることを習慣にすると、舌がそれに慣れ、それを心地よいと感じ、ジャンク・フードが不快になります。それと同じように、「耳」も組み替えることができる、言い換えれば他なる多様な音楽言語を習得し、それを愉しみ、享受することができるようになります。

ジャズを例に取ると、ビバップを面白いと感じることができるようになるためには、一定の時間と修練が必要です。パーカーやパウエルの音楽を受け容れる「耳」を持つためには、一定の時間と練習が必要なのです。これは、外国語や文学作品を理解するのに時間と学習が必要であるのと同じです。

現代音楽やフリージャズ──それらは一括りにはできませんが──のような調性がない音楽でも同じです。ケージやブーレーズや武満、コルトレーンドルフィーやオーネットやアイラーを愉しむことができるようになるためには、一定の時間と訓練が必要なのです。

現代映画を例に取ると、ゴダールを理解し、面白いと感じることができるようになるためには、一定の「学び」、もしかしたら宗教的ですらあるかもしれない修練の過程が必要でしょう。それと同じように、音楽を理解し「経験」することができるようになるのにも、修練の過程が必要不可欠なのです。

「私達」の大多数の「自然」な感性=美意識が歴史的、社会的に構築されていることを理解するには、他なる感性=美意識があることを知るだけでも十分です。例えば私は、高校の音楽コースの授業で、古代ギリシアの音楽を復刻した演奏を聴いたことがありますが、今日の私達が「音楽的」と感じるものとは全く異なったものでした。また、坂本龍一の『Heart Beat』の或る曲には、ピグミーのハミングがサンプリングされて使われていますが、それは私達の大多数が自明と感じる音楽経験を異化し、客観化・対象化する契機を与えてくれます。

もう一度、音楽とは何かという問いに立ち返る
音楽とは何かというはじめの問いに立ち返ってみましょう。私は、それを根本的に問うた人物は、ジョン・ケージだと思います。ケージの有名な作品に、ピアニストが演奏せず沈黙して、コンサート会場のざわめきを録音し音楽とする、というのがありましたが、それは単なる機知やアイディアではなく、音楽経験について問い直すものです。簡単にいえば、生活音と表現としての音楽は区別されるのか否か、という問題です。後年ケージは、ラジオ放送や水道の音や会話など、生活音を組み合わせた『ラオロオペラ』という作品を作っていますが、それは十分音楽的なものです。とすると、生活と音楽表現の区別はあるのかどうか、ということが問題になってきます。

全く別のアプローチから問題を提起したのが、アルバート・アイラーです。アイラーのサックス──例えば『スピリチュアル・ユニティ』所収の「ゴースト」など──ははじめ簡単なテーマを吹くだけで、後は旋律も調性もない痙攣的な叫びが続きます。その突き抜け方は、フリージャズのアーティスト達の中でも飛び抜けています。それはいわゆる「騒音」、言い換えれば古典的な意味で音楽的ではないと看做される音と音楽との境界を問い返すものです。

現代文学とのアナロジーで考えることもできるでしょう。例えば、バロウズカットアップやケルアックの自然発生的散文などです。バロウズは新聞や三文小説その他、ありとあらゆるテキストを切り刻み、ランダムに繋げて、新たな文章を作りました。それはバロウズの「自己表現」ではありませんが、だからといって文学や小説でないというわけではありません。バロウズの手法は、現代美術を参考に発想されたものですが、所謂内面的な「自己表現」とは全く違うものとして言葉を織る術を探究したものとして、極めて興味深いものです。

政治的音楽?
少し話題を変えたいと思います。演歌=日本の心という固定観念がありますが、それは正確ではありません。演歌や歌謡曲は、西洋近代音楽の基本的な枠組みを簡素化し通俗化したルーティンに拠っています。さらにいえば、演歌は、自由民権運動の政治的表現の一つとして出発しました。それは基本的に新しい、近代的なものなのです。西洋近代と違う、日本的ないしアジア的なものを聴きたいなら、例えば雅楽を聴くべきなのです。

「私達」の大多数の日常を覆っている商業音楽の洪水は、その多くが(異性愛の)恋愛などをテーマにしていますが、ではそれは非政治的なものなのでしょうか。日常を諦念と共に受け容れるべきことを暗黙に示唆し強制するそれらの音楽は、最も悪質な意味で実は「政治的」なのではないでしょうか。

演歌や歌謡曲などの歌詞を分析してみても分かりますが、それらの音楽──定型的で陳腐な旋律、和声、リズムのそれ──に乗って歌われる内容は、強制異性愛の性別役割の強調が大半です。それらの音楽は、「私達」──日本に暮らし、日本語を話し、自分のことを「日本人」だと思っている大多数の者ら──の日常の風景を構成していますが、それは、その日常が変わらないように、変えられないように聴く者らに要請する記号なのです。演歌・歌謡曲やJポップの大半が、それを消費することを通じて私達が変わらないように──生成変化しないように、変態しないように──監視する役割を果たしているのです。ここで、例えばUAの「悲しみジョニー」などに見られるように、ポップスの内部においても興味深い音楽表現においては、歌詞の意味が拡散しいわば「呪文」化していることを対比的に想起してもいいでしょう。

はじめに述べたことを繰り返せば、音楽とは草の根の民衆の不断の生産、創造、表現の対象です。音楽表現は繰り返し、陳腐化した風景を一新し、新たなもの、他なるものを齎す発明の連続なのです。ジャズにおけるビバップやフリージャズなどはその一例です。また、ロック、レゲエ、パンクなどもそうかもしれません。

音楽文化は、商業主義と切っても切れない深い関係にあります。現在はネット配信などで無名の人でも作品や演奏を発表できますが、これまではCD製作会社やラジオ局など文化産業が音楽の生産、創造、表現を支配してきました。ジャズの歴史をみても分かる通り、創造的なアーティストの生涯は資本制企業との闘争と妥協の歴史だと言ってもいいでしょう。大衆音楽だけではなく、クラシック音楽や現代音楽などにおいても、「市場」の支配はかなりの部分を覆っています。有機農業やフェアトレードに似た生産者と消費者を直接繋げる試みは稀ですし、成功しているものも数えるほどしかないでしょう。資本主義、市場なるものに支配されるか、国家によって保護育成されるか、そのいずれかしか音楽が生き延びる道はないかのようでした。しかし、状況は徐々に変わりつつあると見るべきでしょう。メディアがミクロ化するにつれて、主体的な自律性の度合いも強まってきています。投壜通信のようなものかもしれませんが、生産、創造、表現し、それを全世界に向けて発信する回路は今インターネットというかたちで存在しているのです。問題は、例えば氾濫するブログ類などと比較することもできるかもしれませんが、垂れ流される「表現」の質であり強度でしょう。市場や国家に判断/批評を委ねないからといって、「何でもあり」というわけではありません。むしろ市場や国家とは別個の、しかし厳然たる批評性が介入することが、今後不可欠になるでしょう。それは、「趣味」を体現した権威ある超越的な批評家のお告げに頼ることではなく、草の根の民衆自身が、その音楽的な感性=美意識そのものを自己批判的に吟味し、組み替えていく創造的な過程を信頼することでしょう。

シェーンベルクウィトゲンシュタイン
ここで話を変えますが、シェーンベルクウィトゲンシュタインを比較してみたいと思います。彼らは、「モダン」の極点において、多様な表現を抑圧しようとした(そして、失敗した)人達だと言えるでしょう。

シェーンベルクの目的は、もはや作曲を不可能にすることであり、ウィトゲンシュタインの目的は、学生が哲学を目指すのを止めさせることでした。しかし、そのような悪質な抑圧にも関わらず、例えばジョン・ケージは生き延びました。そして、全く新たな音の組織化を表現してみせたのです。(ウィトゲンシュタインの抑圧=沈黙の強制に抗して概念創造を貫徹した哲学者がいるかどうかは、私は知りません。)

彼らの主要な仕事は形式化であり、その限界を示すことであった、と言えるでしょう。シェーンベルクは音の組織化を形式化し、それまでの規則とは別の規則に従って編成しました。ウィトゲンシュタイン記号論理の束で語り得る世界を構成し、その外部を示すことしかできない(つまり、語り得ぬ)何かとして規定しました。彼らは、音楽や思考の生産、創造、表現そのものの可能性=その限界を明示しようとしたといえます。しかし、結果的に、人間が──というのは動物のことは分からないからですが──音楽表現し、言葉を話すということを抑圧し切ることはできませんでした。結果的に、西洋近代の枠組みそのものを相対化しそこから離脱する、ないしはそれを異化する無数の試みが生まれました。

彼らの後に、音楽や哲学は決して不可能にはなりませんでした。但し、その在り様を深部から変容し、不安定で予測不可能なものになったといえるでしょう。どんなにそれを制限し、抑圧しようとしても、人が音楽し、ものを考え、言葉を喋ることを止めさせることはできません。依然として人は音楽し、思考し、話し続けます。言い換えれば、文化的な営為を継続します。文化を紡ぐことは、人間の生の根本的な条件なのです。