やる気がない

企業で働いていた頃、昔やる気がなかったし、今もやる気がないし、これからもまるでないだろうと感じる。そもそも私は、大学在学中から資本制企業で働くということが厭だった。会社人間になど、絶対なりたくないと思っていた。でも、「別の」生き方などがあるのかどうか、分からなかった。大学院に進んだのは、モラトリアムというか、問題の先送りだった。卒業後、仕事の問題に直面した。しばらく無職だったのだが、働いて欲しいという親の要望もあり、讀賣新聞社を受験してみた。受験会場に行ってみて、あまりの人の多さに驚き、これほど倍率が高いのでは受かるはずもない、と感じた。実際、試験には落ちた。

その後、いろいろ模索があったのだが、2000年頃、生まれて初めて給料を貰う仕事に就いた。さいたまにある受験産業の会社で、データ入力の仕事だった。仕事自体は楽で愉しいものだったけれど、覚えているのは、社長さんが鬱病で、なかなか大変だったこと、社長さんの不倫で、社長さんの奥さんと社長さんがモメて、私は間に入って板挟みで困ったことなどだ。

社長さんは、私に、左翼運動を辞めろ、そうしたら正社員として雇ってやる、と言った。私は当然、拒否した。それで、会社を辞めることになった。社長さんからは、社会性がない、常識がない、などと散々罵られたけれど、私は平気だった。

その後、1年間ほど無職の時期が続いた。私はデモに出掛けたりして、忙しい日々を過ごした。早稲田にあるあかねというフリースペースで当番を始めたのも、この頃だ。当時はリンダちゃんと名乗り、女装姿のコスプレで当番に入っていた。あかねに関わるようになったのは、詩人の究極Q太郎さんにインタビューしに行ったのがきっかけだった。その時私が無職だということを話すと、ではあかねをやってみたら、という話になったのだった。

あかね当番は金にはならなかったけれど、愉しい充実した経験だった。友達もでき、交流も深まり、幸せな時を過ごした。

けれども、或る時、発作的に「今のままでは生きていけない」と不安と危機感を覚えるようになった。収入が月4,000円では、どうしようもない、と切迫感に駆られたのだ。それで、職安に通い、個別指導塾での事務のバイトを始めた。

そのバイトは一日4時間で週5だった。楽といえば楽なのだろうが、私の能力ではこなすのがきつかった。仕事内容は、速聴といって、早回しにした音声教材を聴かせるのがあるのだが、それのCDを作成したり、ホームページを作成したり、その他雑用を何でもこなしたりするものだった。最初は家から一駅先の鎌ヶ谷大仏で、後には地元である二和向台で働いた。

1年半ほどその仕事を続けたのだが、やはり辛かった。仕事内容は、正社員の方に比べれば遥かに軽いもので楽だったのだが、私の能力ではそれすらこなすのが大変だった。働くというのはこんなにも苦痛なものなのか、と感じた。一番辛かったのは、バイトという立場上、いつも引け目というか劣等感を感じざるを得なかったことだ。所詮パート、みたいな扱いをされることも多く、実際その通りなのだが、大事な責任あることを任されることは全くない、という状況だった。

その仕事を辞めたのは、私を採用してくれた上司が契約切れで退社することになったからだった。上司は私に、「攝津さんもいつまでもフリーターではまずいだろう。正社員の口を探したら?」と言い、私は職安に通って面接などに出掛けていった。しかしどこにも受からず、そのうちに塾の仕事もクビになった。

私は、実家に戻り、家業のカラオケ教室で働きながら、今に至っている。仕事は前に比べて楽で愉しいが、しかし、「ワーキングプア」に近い状況がある。会員さんが減ってきているのだ。今後増やすべく努力するが、どのくらい増えるのかは正直分からない。でも、今自分にはこれしかないのだから、頑張ろうと思っている。

こうした経験から連想するのは、以下のようなことだ。昔ヨーロッパ人が、アメリカ大陸にやってきた時、先住民の人達は、勿論生存に必要不可欠なだけの労働はしていたのだが、それ以上の過酷な労働といったものには無縁だった。ところが、ヨーロッパ人は、彼ら先住民に長時間労働を強制した。しかし、それに適応出来ない人達が膨大にいた。その人達は、端的に死んでいったのだという。それに似た状況が、今の日本でも生じているのではないか、と私は推測する。すが秀美さんの表現を借りれば、資本主義的な「労働のエートス」が崩壊した層というのが膨大に存在しており、その人達がサバイバルするために、新たな労働倫理ないし生き方を発明するか、或いは端的に死んでいくかの選択を迫られている、という感じがするのだ。年間30,000人以上の自殺というのは、一種のサボタージュ闘争である。日本人は、自爆攻撃をする代わりに、自らを殺すことで社会に無言の抗議をしているのだ。私達は、そのようなあり方ではない、協働的な労働・自由活動・遊戯の形式を発明し創造していきたい。「人間力」ではなく、動物の力、植物の力、鉱物の力…を発揮していきたい。内なる第三世界を発見し、探索していきたい。そういったミクロな試みが、必ず社会変革に繋がるものと私は信じている。社会的弱者や少数者に配慮した真に多様で民主的な社会を創るために、全力を尽くしたい。