音楽の勉強を続ける!

午前中、母親を病院に連れて行き、帰りに二和公民館に津軽三味線の稽古に行く。先生とお会いするのは、二度目。じょんがら節のAとCという手を習う。

帰宅後、高田馬場のCD屋に寄ってナット・キング・コールなどを買った後、日本基督教団の会議室での、柄谷行人『世界共和国へ』(岩波新書)読書会に参加。「交換」を巡る精緻な考察に嘆息するが、若干疑問も抱いた。

・Bのところに、社会民主主義ボナパルティズムも含まれるが、それらをごっちゃにして良いのかどうか疑問。社会民主主義が復活しているとしても、それが果たしてベルンシュタインの頃の古い社民主義と同じかどうかは、論証されたことではない。キューバパレスチナハマス南アメリカチャベスなど、社会主義の実験は続いているのであり、それをもっと評価してもいいのではないか、と思った。というか、Bは統制的且つ不平等で、最悪の選択肢のように描かれているが、社民ってそんなに悪いのか? 私は、社民がそんなに悪いとは思わない。富める者に累進課税して貧者に再分配するのも当然のことだと思う。それに国家権力が絡んでいるからといって、否定すべきではない。国家権力を奪取すれば全てうまくいくなどと考えるのは愚かだろうが、国家を使ってやれることは全部すべきだ。

・ネーションとして、宗教的原理主義(復興運動)がA(国家社会主義)に帰着するしかないようなものとして挙げられているが、例えばハマスのような運動はもっと丁寧に見る必要がある。ハマスは、宗教的原理主義(復興運動)から出発しつつも、今やパレスチナの大衆的な支持を受け、イスラエルによる占領・侵攻に対峙する存在となっている。

・AとともにDも衰退するにいたった原因として、Dが性急な実現を求めて残虐な結果に陥ったことに言及し、その具体例として連合赤軍事件と内ゲバが例示されているが、私としては東アジア反日武装戦線の爆弾闘争=血責論のほうをもっと吟味・検討する必要を感じる。第三世界といわゆる「先進」国の格差は絶対的なまでに暴力的であり、それに関しては、誰しもが程度の差はあれ欺瞞的であらざるを得ない。その認識に立つ時、第三世界の民衆(絶対的貧困に喘ぐような)に共感し、負債感情を抱き、自らと他者を死に追いやるかたちでしか闘争・表現が出来ないのかどうか、もっと吟味・検討する必要がある。例えばフェアトレードなど、いろいろな運動や実践が参照されるべきだ。

はっきり言って私は柄谷行人よりも遥かに楽天的である。社会民主主義も宗教的原理主義(復興運動)も、その中にD=Xに移行する可能性・契機を孕むかぎり、肯定してよいし、それに怯える必要もない、と考える。私は、「現実」の自然発生性に対して楽天的なのだ。アソシエーショニズムの運動は、自然に醸成されるし、われわれはそれに手を貸してやるだけでよい、と考える。われわれに必要なのは、解放=逃走への想像力を手放さないことだけだ。現実に運動に関わっていれば、多様で微細な発明や創造の契機が必ずあるはずだ。それを大事に育てていけば良いだけだと考える。理論家が実践の不毛や悲惨の全責任を背負うべきだなどとも考えない。それは、理論家の側の思い上がりまたは倒錯だ。実践はミクロなレベルで、無数の発明や創造に開かれているのであり、現場での発想を重視すべきだ。