ドゥルージアン・プラトニズム

私は十代の頃、相対主義的・人間主義的(プロタゴラスがいう、人間は万物の尺度である、という意味で)だった。つまり、「ソフィスト」に共感し、それと近い立場だったといえる。

しかし、大学に入って以降、ドゥルーズの著作を集中的に読み、プラトニズムへの傾斜を強めた。いまだ反プラトニズムであることは変わりないのだが、単に相対主義人間主義世俗主義なのではなく、一種の永遠性(〈イデア〉という相がそれであるというような)を信じるようになっていったのである。

ドゥルーズの最も深遠な著作は『意味の論理学』である。不幸なことに、翻訳が良くない(例えば、存在の一義性というような基本的なタームが適切に訳されていなかったりする)のだが、意味という逆説的な位相が良く理解できる著作である。

後期の『哲学とは何か』等にも共通しているのだが、ドゥルーズ(及びドゥルーズ=ガタリ)において一種永遠的(かれらはペギーから取り、永遠的でも時間的でもない内奥internelといった表現を取っている)なものは、個体的・人格的な魂のレベルではなく、前個体的で非人称的(非人格的)な特異性singulariteのレベルであり、それは動詞の相で表現される、ということだ。例えば、非人称の人onが死ぬ、という特異性があるわけである。「この私」が死ぬということは現事実に属するが、それはドゥルーズがいう意味での「出来事」ではない。「出来事」とは非物体的(非身体的)な領域に属する、一種抽象的な何かである。ドゥルーズが出来事の哲学者であるというと、現事実的に生じるあれこれの事柄の哲学者であると勘違いされがちだが、ドゥルーズの言い方ではそのような事柄は「偶発事故」という位相に属するもので、「出来事」に相応しい永遠性と堅牢性を備えてはいないのだ。