ジャーナリズム・メディア・LETS

2006年8月24日(木)、アジア記者クラブ2006年08月定例会「オーマイニュース日本上陸 我々の挑戦はこれから始まる」に参加してきた。活気があり、新たな市民メディアを創ろうという多くの人達の意気込みが伝わってきた。ここで私は、言葉の編成と流通の仕方を巡って、ほんの少し考察してみたい。

多数の進歩的な言論人が、大学に頼らず、ジャーナリズムの世界で民衆に開かれた知のあり方を模索している状況はずっとある。古くは18世紀フランスの啓蒙哲学者達の百科全書運動があり(この点については、田口卓臣『ディドロ・ダランベール『百科全書』の対抗運動』を参照してほしい)、また日本でも第二次世界大戦中・戦後に戸坂潤や中井正一の活躍があった。特に中井正一国立国会図書館副館長に就任しており、メディアという問題を早くから自覚していたといえる。

芥川龍之介が『西方の人』でキリストのことをジャーナリストと言っている。勿論、近代的な意味でのジャーナリストではないにせよ、民衆に向けて言葉を開いていくような態度を指してそう言っているのだろう。いつの時代にもあったであろうそのような知のあり方、態度を回復することが必要なのではないかと感じた。

少し目を転じて、別の角度からこの問題を展開してみたい。地域通貨LETSの理論家・西部忠の考察のうち、私が最も影響を受けたのは、LETS、とりわけmulti-LETSが単なる経済的交換の手段のみならず、文化的なメディアになるだろう、という提起だった。現在のところ、地域通貨西部忠が予想したほど大規模には広がっていないが、LETSとは別のかたちで、多元所属的な文化的メディアは爆発的に拡大している。ブログ、mixiをはじめとするSNS、さらにWIKIなどがそれだ。

或る意味でインターネットの総体が自由に使えるコモンズだともいえるのだが、送信する側の者からすれば、問題がないわけではない。それは、インターネットでは情報は無料という通念が一般化しているため、課金して対価をいただくことがきわめて難しい、という点だ。メールマガジンであれサイトであれ、有料化した途端にアクセスが激減する、というのはよく聞く話である。

例えば、私の知人の若い文芸批評家達は、出版・文芸ジャーナリズムが行き詰まるだろうとの予想のもと、言葉の編成と流通のオルタナティブを構想している。具体的には、有料メルマガのコミュニティを作るというアイディアがある。とはいえ、それはネットで金銭を得るのは難しい、という壁にぶつかることはほぼ間違いがない。

そこで、LETSの可能性をもう一度提起したい。メールマガジンや情報などに対して、円は払いたくないがLETSなら払っても良いという人達がいるはずである。LETSの赤字の意味は、単なる負債というマイナスの意味ではなく、コミュニティへの積極的なコミットメントと捉えられる。つまり、貨幣を発行し赤字になることを忌避する理由がないのだ。そのような条件のもと、円ではなくLETSで言葉に対価を払ってくれる人達が現れることを期待できる。

オルタナティブなメディアには、オルタナティブな通貨で支払うということを、今一度私達は考えてみても良いのではないだろうか。