草稿

おっしゃっていることは良く分かりますし、根本的な問題だと感じます。どうすればいいのか、私にも分かっているわけではありません。個人的な意見としては、何らかのかたちで平等志向の民主主義的プロセスを作り出すしかない、と思っています。多数決の機械的な民主主義ではなく、とことんまで話し合うといったかたちの民主主義です。

「言葉」を持っている人とそうでない人との間には、明らかに「階級差」があります。それに目を瞑るのは欺瞞的です。しかしだからといって、知識や知恵(後者については皆さんも有用性を認めているわけです)を否定することもないだろう、と思います。

それと、これは考え方というか感性の違いかもしれませんが、このMLに投稿しているほぼ全ての方が「マルチチュード」概念に否定的なのに違和感を覚えています。私はネグリが(活動家としての顔から分離された)単なる知識人だとは思わないし、「マルチチュード」概念が全く無効だとは思っていません。私が実証的な社会(科)学よりも哲学のほうに親近感を抱いているからかもしれませんが、「マルチチュード」という横文字が分かりにくいというなら、多数性とか共同性とか言い換えればいいわけで、そうすれば素直に理解できると思います。

私が理解している範囲でいえば、近代の社会思想において(ホッブス等)、国家・国民「主権」という統一的な概念が前景化した時に、草の根の民衆の多数多様な力が排除、抑圧、疎外されたけれども、そのような近代的な構えの国家観に対する批判的な契機として多数多様な草の根の民衆の力が再浮上してきた、という経緯があると考えています。

例えば、ネグリは次のように述べています。

コミュニズム、それはコミューンに生成する多数者=多数性である。といっても、それはひとつの前提や、ひとつの観念、何か隠された形而上学的なもの、あるいはひとつの統一性といったものがそこにあるということを意味しない。それは、一なるものに逆らう共同であり、極限にまでおし進められた反プラトン主義である。それは、思想の発展のなかで早くから登場していた考え、つまりユートピアが必然的に統一性を構成したり、権力の統一と主権の問題を解決するといった類のコミュニズムの考えの裏返しでさえある。ここでは、共同を構成するのは多数者=多数性である。ドゥルーズの未完の書、『マルクスの偉大さ』で構築されていたコミュニズムの概念とは、私の理解によればこのことなのである。

私は、例えばルソーの『社会契約論』に登場する「一般意志」概念が個別的な多数多様性を捨象してしまうことに不満を抱いていましたし、ヘーゲルの議論において最終的に国家というエレメントに全てが吸収されてしまうことにも違和感を覚えていました。これは高校生の頃からの素朴で個人的な動機です。私は近代の(というか、伝統的な全ての)社会思想が特異性を圧殺して超越的な普遍性を称揚することに耐え切れない気持ちを持っていました。一般的なエレメントに達するためには、各人は、自分の個別的なものを断念しなければならない、という論理に欺瞞を見ていたのです。その立場からすれば、ネグリの主張はよく分かるし、賛同できます。