起き上がれない

昨日から始めた認知療法日記?の続きです。

2006/5/13【起き上がれない】
薬(ベゲタミン?)の副作用か、起き上がれない。母親のやっているカラオケ教室の手伝いをするように言われていたが、自室から外に出ることに不安・恐怖を覚え、どうしても出来ない。結局6時まで自室から出られない。夜はバンドの練習。お客さんやシタール・ギターを演奏してくれる木嶋さんなどがいらっしゃる。何とか終えるが、今日は何もしていないのにも関わらず疲れていて、早く横になりたい気持ちで一杯である。どうしたものだろう。この体調不良を何とかしないことには、芸音ホールを開くことも出来ないし、労働者協同組合を創ることも出来るはずはないのだ。

外に出ること、お客さんに会うことに対する強い不安感・億劫感という点では、確かに医師の指示した「社会不安障害」の症状に当て嵌まっているのかもしれないと思った。

今日は「死にたい」ということですらなく、ただ「眠たい」という生理的欲求に支配された一日だった。

【友人達との比較】
私は早稲田大学出身なのだが、友人達には社会的に成功している人達も多い。その人達と自分を比較して劣等感を覚えた。かれらは会社や大学院でばりばり活躍しており、この社会に受け容れられているのに、私は「精神病」で職もない。何か誇れるようなことは何もない。十年前、大学生だった頃、私とかれらは同じ位置にいた。今や、私とかれらを隔てる社会的間隙は余りに広大である。私は私の生を恥ずかしく思う。

私はこの社会に生きるのに向いていない人間なのだと思う。学生時代はそれが隠れていたが、今やあからさまになっている、という違いがあるだけなのだと思う。そして私は、社会不適応者である自分自身のことをそれほど嫌いではない。恥じてはいるかもしれないが、それほど嫌ってはいない。私は一貫して、一旦壊れてしまった人間、挫折した人間の再生・恢復の運動をしていきたいと思ってきた。それは少しもうまくいっていないが、理念として持ち続けている。少なからぬ人間が私を「人間の屑」として嘲笑した。私はかれらが「人間の屑」というのを逆手に取って、底辺からの再生・恢復の運動をと言ってきた。今、それは口だけのものである。しかし、いつか具体的に出来る日が来るかもしれない。

【検討】
自動思考?「外に出るのは怖い」「下に降りて(=店舗まで行くという意味)知らない人と会うのは怖い・億劫」「私は働けない。駄目人間だ」
自動思考への反論→「ベッドから出て自室の外に出て行くことは出来る。決意さえすればそう出来るはずだ」「知らない人と会うのもそれほど怖いことではない」「私はこれまで働いてきたし、これからも働けるはずだ。今は準備・模索の時機なのだ」