究極さんがmixiをやめてしまって、淋しい

http://www.os.rim.or.jp/~orchid/otegami0501_qtaro.html

http://www.kylin.com/ningen/sengen4gou.htm

怠け共産主義者宣言

究極Q太郎&分福エンゲルス――怠け共産党脱力派

我々はここに宣言する!

勤勉はいらない、と。

およそ、西欧社会(と、軌を一にする社会)の道徳的基準軸は、それが西であれ、東であれ、勤勉であるか否かということで、善悪を区別していた。そこで冷戦構造などはなかったのだ、と言えよう。

ようするに、二つの世界しかなかったのだ。南と北と。つまりは、第一世界と呼ばれるものと第三世界と呼ばれるものだけが。南とはこれまで、第一世界にとって、自らの道徳的正しさをアッピールする為の、そんな国際的(世界史的)会場に他ならなかった。もしも、南を無権利状態のまま放っておけば、西にとっては「東」という、東にとっては「西」という“邪”に汚がされてしまうと考えられていた。そこで、南は問題であった。もちろん、南がなにかであったとしたら、それは豊富な地下資源と開拓の余地がある市場、安上がりの労働力のことでしかなかったのだが。

今、世界は、資本主義のネットワークによって、余す所なく覆われている。そうしてこのシステムは恐慌に陥るような与件が来てもぐらつかないだけ耐性を持つということが知られている。今では、誰もかれもが資本主義者であり、そのシステムを脅かす不安定要素は、除去されている。世界中のあちこちでたとえ民族紛争が起こっていても、それは、時代錯誤なぶりかえし以外の何ものでもなく、既に世界は一つの基盤、さまざまなブロックを持つが、結局は通底している、そういう基盤へと統合されていくだろう。

以上のようなことは、まさしく幻想であるが、信憑性をもって語られる。南で起きている、「戦争」「民族対立」「狂信」「麻薬」「犯罪」「女性差別」「貧困」「失業」「スラム」「餓死」「AIDS」は、資本主義を揺るがせにするような、“危険な要素”ではなく、それは、資本主義のマナーに抵触するエチケット違反のようなものでしかない、とされている。世界化された資本主義は、近い未来では、どこでも情報が均一化(平滑化)されているだろう。そうして、その情報の発信源はいつも北である。何にどのようなイメージを付与し、何をどうすべきか問題提起を行うのは、その情報の配分者である北なのだ。南は、そこで、いつも一定の水準に達しつつある世界のバカな撹乱者、マナーを知らない野蛮人とみなされることになる。

「先進国」への外国人や難民の流入に対する、リアクション(閉め出し、強制送還)は、そのような観点からなされるだろう。

そのとき「彼らは潜在的な犯罪者」と言われ、「仕事もしないくせに金のことばかりにうるさい、怠け者」と言われる。北側がかってに抱くイメージの中で(なにしろ北は自分を情報の配分者に任じている)南は、悲惨によって際立たされ、そして、北へ流入しつつある、しようとする南とは、社会の秩序を乱しかねない撹乱分子としてみなされるだろう。

そして、いつも「怠け者!怠け者!怠け者!」とやかましく言われるだろう。いるだけで余計なのに、普通以上がんばらなきゃ、怠け者だ。タイ米のような余計者。先日「タイ米」とクラスメートから呼ばれていた少年が、イジメを苦にして自殺した。

そうなのだ、現在、我々が、この社会のくだららない(ヘドが出る)コモン・センス(「正論」という雑誌は、ようするにテメエたちのバカさ加減を、タイトルにおいて謳っている)に対して、もっと声を嗄らして異議を唱える必要がある。でなければ、南はどうなるのか? そうして、日本の中の南はどうなるのか? 外国人労働者(娼婦)ばかりではなく、在日朝鮮人、障害者、精神病者、アオカン者やいじめられっ子はどうなるのか? ようするにハズレ者はどうなるのか? わたしにとっては「わたしのような、大学中退して、なんの保障もない障害者の介護専従の世事についた者はどうなるのか?」と言おう。

ようするに、道徳(あるいは法)からこぼれ、善悪の彼岸におかれてしまった人間たちに、コモン・センスという漠然とした(なんの根拠もなく前提された−とドゥルーズは「差異と反復」の中で言っている)世界観に置き去りにされた人間とって、世界には、居場所がなくなってしまう。そして、情報のゲットーの中に囲いこまれてしまうようになるだろう。

「北」から提示される一つの観点は、世界的な観点ではない。「南」から提示される観点もあるべきである!それを認めようとしないコモン・センスはナン・センスだ! そこでは、怠けることは別様の解釈をなされうるだろう。生を肯定するためには、あくせくしてはならない、という見方もある。まだ、規格化された単一の速度を持つべきではなく、ゆるやかであったり、すみやかであったりするべきだ、という見方もある。前進ばかりでなく、後退もあるべきだという見方もある。
人々に調子を合わせて、何者かになろうとするよりも、素朴に自分自身であるべきだ、という見方もある。知らないことを無理して知ろうとする必要はない、という見方もある。
われわれは、「ありのまま(見たまま)の怠け者さ、それがどうした!」
と言う必要がある。

醜悪に対しては、美をもって闘うしかない――ジョナス・メカス 

万国の人間よ、脱力せよ!――DADA