土に触れる〜強風〜ジジェク

起きて、電車で千葉の南流山に。有機農業を体験しに行くのだ。某氏から誘っていただいた。他の人達もいる。今日の千葉県はひどい強風。風に吹かれ土に触れ合いながら、自分はこういうことに喜びを感じる人間じゃないんだなあ、と改めて思い知る。これじゃあ、農村に移り住んでも、暮らしていけないやね。

ファンキー・シーズに間に合うように帰宅しようとするが、武蔵野線が強風で止まってしまう。振り替え輸送になるが、また止まる。バス、電車を乗り継いで、ようやく7時過ぎに帰り着く。

ファンキー・シーズは今日もお客さんがおらず、練習会。次回は4/9(日)ということになる。

電車内では、昨日に引き続きジジェク『「テロル」と戦争』を読む。ネグリ=ハートの『マルチチュード』がそうであるように、「911以降」を強く意識させられる本。だが、ジジェクの立ち位置は、ネグリ=ハートとはかなり違う。ジジェクを読んでいると、良心の痛みというか内心の咎めというか、そんなものをちくちく感じるのだが、態度変更しようとは思わない。ジジェクの理論は見事だとは思うが、ジジェク主義者(だがそれは何だろう。ラカニアン?)になろうとは思わない。

ジジェクは結局何が言いたいのだろう。議会制民主主義を批判し、革命を肯定するのだろうか。ネグリ=ハートの言う「絶対的民主主義」(でもその概念内容は何?)も議会制民主主義ではないので、案外かれらは遠くないのかもしれないが、ジジェクは大文字の政治や真理が存在すると前提している。真偽の決定(識別)不可能性や「偽の力」を言うドゥルーズ=ガタリとは遠く隔たっている。今日においてなお、革命を肯定しようとするジジェクの姿勢は賞賛したい。だが、どんな革命なのか、それはどのように遂行されるのか、という点で、不透明である。理論家・哲学者であるジジェクに、政治的戦略・戦術まで求めても不毛かもしれないが、私は一個人として、自分に何が出来るのかを知りたいし、自己欺瞞を止めていきたいと思うので、もっとかれの考えを知りたいと思う。

ところで、以下のような事件が起きている。権力の獰猛な姿がますます露わになってきていると感じる。

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