HOWSの講座

朝、体調不良、一旦起きるが、寝込んでしまう。
体調が少し改善してようやく起き上がり、遅刻するが、本郷三丁目のHOWSに、鎌田哲哉のハナ・アーレント講義を聴きに行く。

http://www3.ocn.ne.jp/~hows/top.html

http://www.juryoku.org/osirase4.html#kamatetsu2

アーレントの話は、NAM時代に倉数さんなどから聴いていたが、自ら読むのは初めて。「帝国」(ネグリ=ハート)の時代といわれる今日に、敢えて「帝国主義」を考えることには意義があると思う。

アーレントは「人権の終焉」というようなセンセーショナルな書き方をしているために、人権言説を全否定しているのかと思ったら、鎌田さんの解説によれば、そうではない、とのこと。「諸権利を持つ権利」(『全体主義の起原2』281ページ)に注目し、人権よりも幅広い権利という地盤で思考=運動しようとしたのだ、という。それなら納得できる。

私が社会運動の分野で影響を受けた友人が二人いる。セクシュアル・マイノリティ運動の人達だ。一人は稲場雅紀さん、一人はひびのまことさん。稲場さんは王寺さんの後輩で、ひびのさんは杉原さんの同僚だから、NAM時代から奇妙な縁みたいなものがあって、かれらと繋がっていたのだが、かれらの創ってきた実質的な運動そのものとそれを支える思考は、私にとって常に参照点であり思考の糧であった。

一方で、現実に難民問題に取り組む際、「ナショナルなもの」に限定されないインターナショナルな「人権」言説に依拠せざるを得ないという現実がある。こちらの側面を強く代表しているのが稲場さんの思考と実践だ。アカー時代から、「アドボカシー」(マイノリティの権利を求める裁判闘争)を担当してきた稲場さんは、イラン人ゲイ難民シェイダさんを支援する運動を何年もの間創ってきた。そして恥ずべき日本の司法権力の堕落のために、高裁で敗訴するのだが、国連難民弁務官事務所の仲介で第三国に出国することができ、事実上の「勝利」を勝ち取った。シェイダさん問題は、難民問題に現実に取り組む際、人権言説が未だ無視できない有力な根拠たり得るという事例だろう。

他方、国連大学前で難民家族が座り込み、焼身自殺を試みもし、警察権力によって不当に排除されでっちあげの暴行罪で逮捕された事例は、国連のような機関の欺瞞性を暴露するものかもしれない。私は、現実的に考えるならば、実際の運動・闘争において、人権言説と国連等国際的機関の限界に常に配慮しつつ、使える間はそれに依拠しながら当事者救援を続けるほかないと思っている。

http://www.sukotan.com/shayda/shayda_top.html

http://www.kt.rim.or.jp/~pinktri/afghan/index.html

http://homepage3.nifty.com/kds/

http://www.bekkoame.ne.jp/~pyonpyon/fjc/j.htm

他方、日本「国民」であること=ナショナルなもの(国民主権)そのものをラディカルに問い直す立場も存在する。ひびのまことさんの事例がそれに当たる。

http://barairo.net/

http://barairo.net/special/palestine/text/index.html

http://barairo.net/special/palestine/nijinokai.html

日比野 私自身パレスチナへ行ったことで一つだけ態度をハッキリさせた事があるんです。それまでは日本における在日朝鮮人の法的権利をどう考えるか、ちょっとあいまいな意識だったんだけれど、向うに行って見てると、ちゃんと言葉で整理されてないんだけれど、在日朝鮮人の国政レベルでの被選挙権を含めた全ての政治的権利というのは、即時無条件で日本人と同じものにして当然だと、私の内部で腑に落ちました。それはイスラエルの状況を見て分かった。つまり、イスラエルの中でパレスチナ人がどういう目にあっているのか見たときに、あまりに日本の中での在日朝鮮人の権利と似ている、それをビックリして。このイスラエルにおけるパレスチナ人への扱いがダメな扱いなんだったら、日本でもだめじゃん、と考えた時に、それが私の中で踏ん切りがついた。明確に言う事にしました。思って帰ってきてみると、日本でそういうこと言っている人はあまりいない。私が知らないだけなのかな。在日朝鮮人に関して国政レベルの被選挙権も含めて完全に同じに即時無条件でするべきだ。ただしそれを使うかどうかは本人の勝手ですよ。国籍とは無関係に帰化なしに国籍とは別の市民権という発想で、そこまで行くのが当然だ、としないとイスラエルの批判できない。

日本国籍を持つ人であるということ
日比野 それから、ちょっと相談なんですが、国家。私が逮捕された時に川口外務大臣に手紙を出したのね。私の事を何かしてくれという事は書かなかった。日本政府としてイスラエルパレスチナに対する占領を批判してくれと要求したわけ。これは獄中で書いた手紙なんです。獄中でなんでこれを考えたかと言うとISMのスローガンは、何でもいいからできることはやろうという事なんです。その場で出来ることは何でもやろうと。
Do something! Do not do nothing!
(何か行動しよう!何もしないのはやめよう!)
私もそうだと思って、獄中にいたらそれを利用して出来る事はあるはずだと思って、何しようかと思って、川口外務大臣がこの頃パレスチナへ来るみたいだったから、こういうの書くと騒ぎになっていいかもと思って書いてみたのね。あの時考えたのは、どうやって「パレスチナを占領しているのは問題だ」という世論を作るかを考えて、私の位置でやるべきこととして書いたんだけど。日本政府にこういうことしろというのは、よりましな日本政府を作るという考え方ですよね。それから私が逮捕された時にね、テルアビブの日本大使館に迷って、電話したんです。「私逮捕されたんで、よろしく」と。電話したという事がどことセットになるかというと、

1、在日朝鮮人が電話をしたら日本大使館は対応するのか?
2、そもそも私は日本大使館に電話をするという選択をするのか?

すごく微妙で迷った。でも私の中では決まった。在日朝鮮人に対しても日本政府と日本大使館はしかるべき行動をとるべきだ、と。私にとったのと全く同様の行動を日本政府は取るべきだ、と、言い切らないと、私の中では納得はいかない。そう思って、向うでも大使館の人にこのことを聞いてみたら、

「日比野さん難しい事言いますね」
「で、どうなんですか?」
「それは必要な事をするという事でしょ。」
「で、あなたは動くんですか」
「電話かけてきたら仕方ないんじゃないんですか」

現場では動くのは当たり前だという感覚はある。けれども、上司がなんていうか分からない、ということをその人は言ってました。そういうやり取りがあって私の中で踏ん切りがついたんですけれど、在日朝鮮人に対する行政サービスも日本政府の仕事であると言わなければダメだ、と。あいまいな態度をとるべきじゃない、というふうに私の中でなった感じなんだけど。それから、私が逮捕された時に日本大使館に電話したというのは、アナキスト的気分をもっていた日比野として、果たして妥当な行為だったか、ということが残るわけですよ。どう思います?

(どうして電話したの?一応知らせておかないとということで?)

ISMの人とも電話してたんだけど、英語にやっぱり不安があって、ほんとうに連 絡つけてくれるか不安だったんですよ。日本で動いてくれる人に連絡つけてくれ るか不安だったんですよ。言葉(英語でのコミュニケーション)がものすごく辛かったので、日本語でちゃんと伝えられる人に伝えようと思って、大使館に電話してみたらどうかなと思って。でも、こちらからは、あれしてくれとかはあまり頼まなかったら、向うでガンガン動いたんですが。結果だけ言えば、大使館に連絡したおかげで、新聞にも載ったんです。日本語文化圏で動いているから、英語でどんなニュースレターが送られてきても、それが広がるのに時間かかってしまう。今なら、日本に居る友達に直接電話連絡して、とかいろいろ考えられるけど。結果としては、それで大騒ぎになって良かったんだけど。どう思う?政府に頼らない?パスポート取っといてそんなこと言えるのっていう話から始まって、政府嫌い、政府いらない、アナキストだからそんな事言ってるのは趣味の問題で、そんな事より現実的に必要なことしたらいいんじゃないかとか、現実的に半分くらいは私の弁護士的な役割を日本政府は果たしているんですよ。だから、逆に言うと、イスラエル兵が私に対してひどい事をしないのはなぜ?でもそれは微妙に迷うわけ。日本政府があるからなのか、日本社会があるからなのか、私の友だちがいるからなのか、これまた微妙。なぜ私は殺されない?パレスチナ人はバンバン殺されるのに。正直言って分からないわけ。でも、思うわけ。日本政府動かない、日比野殺される。そういうこともありうるわけね。でも、微妙で「日本政府に何か仕事をさせよう」という方針で行くのか。「日本で暮らしている友だち一人一人が、直接イスラエル政府に文句を言う」というやり方もあるわけね。そっちのほうがいいのかな。

(頼るという事でなしに利用したらええんちゃうの。)

日比野 私はそうしたんですよ。私の意に反して金(税金)取られているわけだし、日本に居たら救急車呼ぶわけでしょ。同じ感覚で日本政府に仕事をしていただこうと。

(井上澄夫さんという人がタイに居た時に、クーデターか何か起こって、そのときに自分の身が危険になったけど絶対日本大使館に駆け込まないと、日本とタイとの関係で井上さんはそう思ってて。そういう話を25年ぐらい前に聞いた。それはずっと残ってて、だから外国に行くということは、特にアジアとか、日本が悪い事してないとこ無いやろうけど、そういうなんかあったときに大使館に駆け込むかどうかは、そのことを聞いたときからすごくあった)

日比野 駆け込むではないです。連絡をとって事実を伝えたんですね。そうしたら向うはサッサと動きはッたんです。

(それは仕事やからなあ)

日比野 そうなんです。邦人保護というのは仕事なんです。

(仕事せえへんかったら国会でいわれるやろ)

日比野 国会で叩かれますよね。ちょうど外務省が叩かれてた時だから下手うったらまた叩かれるというんで仕事してはったというのが、よく分かるんです。日本政府ホントによく働いたのね。捕まって裁判までしたのは日本とアメリカとイギリスなんですね。アメリカ大使館というのは、捕まった人に対しては、ほとんど何もしないわけ。日本大使館は刑務所まで車で迎えに来てくれたり、荷物を引きとりに行ったりとか、一杯してくれるわけ。ダーリーンが、何もしない米国大使館に文句言いながら、日本大使館にはとても感動していました。

(裁判の時の弁護士は?)

日比野 弁護士はISMの方から依頼していますので、そっちとの会話の中で私は意思決定しています。拘留中も、大使館員は、日本に帰れ帰れと、「処分を受け入れて帰るほうがいい」と言うのですが、こちらもこちらで独自に意思決定していますので、そのことを言うだけで議論はしない。大使館員は裁判の傍聴にも来ていました。ヘブライ語と日本語の通訳が一番上手に出来るのも、その大使館の人なんです。やっぱし日本大使館役に立つなあ、という事ありました。でも、所詮国の側ですので、信用とかは全然してないんですね。  
  ふうさんからもらった文章で「声なき叫び」を見た後で死刑廃止を言うのは大変・・・という感じ。私も、大学の中で性暴力が起きた時に警察を呼ぶな、とは、私はよう言わんと。「大学の自治だから警察呼ぶな」とはもう言えない感じがある。その辺の事で全部セットの感じなんです、私の問題のフィールドとしては。国をどうする。利用したらいいんじゃないかと私は思ってるんだけど。

パレスチナ人は殺されるが日本人はバックボーンがあるからイスラエル兵が配慮すると言う意味で、自分がただの個人でなくて日本人である、というのは大事な事だと思うんですけど、日々の選択の中で自分がどういうふうに国家と付きあっていくかというときは、それは日比野サンのされた選択が主義に反してるとか倫理的におかしいとか全然思わない。それは当たり前なんじゃないかなと思いますけど。)

(自分で決める事だからあれこれ思わない。自分だったらどうするかという事だけでしょ。そのひっかかりは日比野さんの整理したものだから、他人がどう思うか、感想はあったとしてもとどの選択肢でも私はいいと思う。その人が決める事だもん)

日比野 もちろんそうなんだけど。

(利用できるものは一杯利用した人を見るのは好き。)

(だって、力とか無いじゃないですか。その時に、例えば、オウム真理教の人が廻りの人にボコボコにやられそうになっている時に警察が入った方がまだまし、とかね。そういうことってあるでしょ。そこで自分が出ていってボコボコにされても何もならなくて、というときに警察を呼ぶというのはある・・・そういうことってあるから。私は国の力は頼らないとはよう言い切らない。)

(利用してるというのは言い換えてるだけのような気がしますね。向うは利用されてるとは思ってないわけだし。日比野さんは日々の暮らしでどういうふうに対応したかということは、それぞれの問題ではないと思うな。ものすごく考えたいと思うな。)

日比野 私の場合は、どっちかと言うと、政府は利用したらいいんだと考えた方が現実的にいいんじゃないかと判断をして。それで、だったら、在日朝鮮人に関しても当然しかるべきと・・・この辺、皆どう思っているの?

(ちょっときれい過ぎるように思う。自分の中で一個の人間として、たくさん皆で組んでやるわけじゃないから、ISMに参加する時から一人一人でやってるという、カッコいいという、清末さんがおったのシンパシーがありのいろいろあって、その時一個人で行くということと、実際対峙して、難儀な事に出会ったときにはやっぱり、一個人を貫徹して、そこであなたは変わって、在日の事まで行くというのは、そんなにスッキリ出来たらいいけどもなかなかそうにはならないんじゃないかと思うんだけど)

日比野 どの辺がですか。

(利用するというのは逞しい、したたかとかね、しぶといとか言ったらいいんだけど言い換えてるだけの事のような・・・)

(例えば私なら、パレスチナに行ってパレスチナでいろいろ見てきて何か困難とか出来事に出会って、そのことが引っかかって考え始めるじゃないですか。考え始めた時に、あの時はああしたら良かったんかなとか、あるいはそのときに日本国家を感じた事とまた別の出来事に遭ったときにどういうふうに自分の中で反省したり、結論付けるかというのは、言葉だけに頼って考えると、理屈では割り切れるものがあるかも知れへんけど、でも多分そういうことよりも実際行って見てそこで感じてそれを繰り返すのが、回り道やけど誠実かな。国に対する評価というのも、自分の中でちゃんとしたスタンスが無くて、こういう場合に関しては国を利用した方がいいと思うけど、こういう場合は国は対峙するべき対象なんやろうなとしか、自分の中では整理つかない)

日比野 私も気がついてきた感じで、私は「守られてきたマジョリティー」だったから、これまで日本政府との関係を詰めて考える必要は無かった。だから、全部あいまいだった。

(もっと、日々の暮らしという事で言えば、別にそこに出かけなくてもISMに行かなくても、例えば、3月15日で確定申告は締め切りで、毎年毎年やって来たけれど、でも税金は発生してて、ぼくはほとんどゼロ所得だから、原稿料の源泉引かれたもの戻ってくるわけだけど、やらざるをえないわけね。でも、金はいいや、という事でやらないということもあるわけ。3,4年前までは子供の障害児の手当てをもらうためにはどうしても所得をあげないといけない。そのまえでは、母が特別養護老人ホームに入って、途中まで、特養に入っている人は無料だったけれどある時期から所得、年金に応じてお金を払わなければいけないことになったわけ。自己負担。そのときにはやっぱり税金はいるわけです。それは日々出てくるわけですよ。日比野さんは今まで出てこなかったかもしれないけれど、ぼくの中でなぞらえて考えるとね、差し迫っては、そしたら今年の税金どうするか。今は娘も死んだし母親も死んだしそういうことはなくなったけれども、後は還付金をどうするかということなんだけれど。)

日比野 私の場合は、今回のパレスチナ行きが非常に大きなきっかけになったんだけれど、その中身で皆さんどう思っているのかが知りたかった。

(邦人保護といってもいろんな段階ありますよね。大使館に連絡したら、例えば、自衛隊機が飛んできて、それに自分が乗って帰るんだったら嫌だけど。逆に裁判受ける権利あるわけでしょ。通訳が適当というけれど、裁判を受ける権利を行使するためにも。日本に居たら、国のやることは恩着せがましいというか、恩恵的に私らはお上に助けてもらうという事があるかもしれないけれど、でもやっぱり権利だから。それを全うするにも大使館を利用するというか権利行使ということで私はいいんじゃないかと思う)

(私はあらゆる権利は行使すると思います、自分は)

(彼が言ってるのはそうじゃないと思うねんね。国家権力に自分が関わってしまったことの問題意識。私は在日ですけど、共和国ではなくて韓国籍。韓国のパスポートをもって海外に居るという事になるんで、そういう場面に遭遇したとしても日本大使館に電話しませんね。一応韓国の大使館に電話します。そういう信頼関係を韓国の政府に私が持てるかといえば持てないような気がします)

(元々日本語の分かる人と話をしたかったのではないのですか。自分の状況を。それかがたまたま大使館になってしまった。)

日比野 言っておこうかなと思って電話した。不安は不安で、このまま抹殺される可能性まで常に考えながらいますので、言葉が分からないし、パレスチナ人はひどい目にあっているわけで、殺されているのも一杯見ているので、どうなるか分からないということがあって、知らせとくかと思って電話をした。

(日本の友人にかけるという選択はなかった?)

日比野 国際電話のかけ方が分からなかった。(今なら分かります)

(日本の誰かが受けるとしても、まずすることというのは、外務省を通じて現地の大使館に日本人が拘束されているから調べて動いてくれという事になりますね。現実にはそうすると思いますよ。効率的だと思います。そもそもパスポートもって出てるんじゃない。菊のご紋のはいった。あれは、この人は日本国の人間ですから、もろもろの方はよろしくお願いしますねというものでしょ。)

日比野 分かるんですけど、首尾一貫するんだったらパスポートを取るのが間違ってる。それもわかってるんですけど、でもそれは二つの選択肢がある。パスポート持ってるんだから当然と、どこまででは利用するけれど、ここからは利用しないという選択はするでしょう。

(日比野さん自身の中に選択肢はあるけれど、『立場が逆で友人が捕まり』もしその人の命が何らかの形で脅かされていて、その人から電話がかかってきたら)

日比野 本当に私にとって大事なことだったら、直接自分で行きます。手を抜きたいのだったら政府に要求します。通訳を金で雇って自分で行きます。
(ひびの補足:ただこれは、あくまで私のスタイルはこうだということだけで、こうすべきだとか、誰かを否定的に言っているのではないです。人によっていろんな選択肢を選ぶのは当然だし、その人が一番いいと思うやり方で動くのが大切だと思います。一応念のため)

(それと自分が大使館に電話しちゃったことで自分に中でなにかどうも落ち着かない、のですか。)

日比野 ここはアナ系の場所かな?と思って・・

(ではないよ。いろんな人たちが集まっている)

アナキストはそんな助けもとめないのですか。)

日比野 助けを求めた覚えは無いんですよ。

(そんな事言ったって・・)
(それはすごい誤解やね)
(生きていけない)
(国家を否定すると言っても、百%否定は出来ないと思う。生きてしまっている僕というものがここにおるんやから。問題が出た時にどういう選択するかということしかぼくは無いと思う。日比野さんが捕まった時にいろんな選択が出来たんやろうと思う。そのときに自分が危ないという可能性もあるし何かそういうものに連絡しなければアカンというような思いがあって選択しはったんやと思うんやけどね。それを今、よかったのか悪かったのかというのは日比野さん自身の問題やと思うんやけど。ぼくならどうするかと言われれば、同じような選択きっとしたやろうけれど)

日比野 私の場合には日本政府に連絡する選択肢があったのです。在日朝鮮人の場合は

1、日本大使館に連絡するという選択肢はあるのかないのか
2、韓国政府に連絡するという事が、日本語しかしゃべれない二世三世にとって有効で意味があることなのか

という事まで考えた時に、どんな国家を、どんな形として想定して生きていくのが、私達のシステムとしていいのかなとか、そんな事考えるわけです。 言ってること、分かった?そこのところのビジョンを考えないとまずいんじゃないかと、遅まきながら思ったわけ。「私達」は考えてこなかったでしょ、そこまで。

(それは分かるんだけれど、その時に、日本人である私であるとか、健常者である私であるとか、女性である私はこうあるべきではないかというふうには私は立てたくない。自分以外の人たちはどういうふうなんだろうと想像力をすごく持ってないといけない、注意しないといけない、出会った人がどういう人なのか本当に分かる事難しいし自分が何も知らなくて人を傷つけているかもしれないという想像力は必要だと思いますが、そのことが自分を縛る、こうあるべきじゃないというふうに縛るのはしんどいと思う。アナキストだったらどう思う?という問いというものは、アナキストとはこういうふうにあるもんじゃないかというものがあるのかなと思って。それはちょっとしんどいんじゃないかな。)

(最初にね、日比野さんが、ここでは何でもしゃべれる気がする、とおっしゃってたでしょ)

日比野 微妙に違うんですけどもね。他での報告会の場所よりか、悪口みたいな事とか、思ってることをバァーンと出すことが出来るかも、という事をいったんです。

(で、そういうふうに思っているというのとそれからアナというのがそれこそ微妙にリンクしてるのんかなと思う。アナということでしゃべれると)

日比野 しゃべれると思ったのは、政府国家をどう見なすかという事に関して、少なくとも路線や考え方が違ってもかまわないですけど、それなりのビジョンを持ったひとと話ができるんじゃないかという期待があったということですね。
(アナじゃないです。)

日比野 で、私が気がついたのは、私と同年代で、外国に行って、例えばビルマに行ったり、インドネシアに行ったりとか、東チモールに行ったりとかで、話をしている連中に、「日比野は、所詮日本のことしか、しない人」とまでは言わないけれど、でも何となく「所詮、日比野、分かってないなぁ」という印象を持たれているということを何となく感じてたのね、これまでも。なんだろう。何となくこいつしゃくだなあと思っていた。それが、これかも。つまり日本政府との関係を私はこれまでちゃんと考えてなかった。
 で、話を戻して、イスラエルのことグタグタ言う前に、在日朝鮮人という存在をどう見なすか、全然考えてなかったなあと。誰が誰を批判できるんだろう。  

(今日の報告で資料に図があったでしょ。同じ縮尺でこの日本の中の茨木市大阪市の距離というのとすごいなあと。ただイスラエルを見てきてこういうことがあったという事だけではなくて日本の事として話された。)


http://barairo.net/special/palestine/text/letter.html

私は日本国政府の方針の多くに反対の立場ですが、在テルアビブ日本大使館(領事館?)の領事のエハラさんには他者としての敬意を持って接していただき、誠実かつ丁寧に仕事をする姿を見せていただきました。末尾になりますがお礼と共にご報告させていただきます。と同時にそういった他者への敬意を持った態度は、たまたま日本国籍を持っていた私だけが得られるべきではないということ、パレスチナに生まれ育ったパレスチナ人たちがその生活の中でも得られるべきものであることにすべての人が思いを馳せ、行動されることを願ってやみません。


http://weblog.barairo.net/index.php?categ=1&year=2004&month=11&id=1101298348

 わたしは改憲論者です。現行日本国憲法は、第九条を含め、アジアへの侵略戦争の歴史から目をそらして国体=天皇制を維持するために作り出された不十分なものです。少なくとも、憲法の前文には、朝鮮併合とアジア各国への侵略の歴史を具体的に記述して、そしてアジア侵略の責任者であった天皇を処罰した上で天皇制を廃止し、侵略戦争の加害責任を果たすべきでした。第一章の天皇制の規定は全て削除して、君主制国家としての日本のあり方を共和制国家に変えるべきです。第九条も「国際紛争を解決する手段としては」「前項の目的を達するため」を削除して、自衛のために国家が軍隊を保持することを明確に禁じるべきです。もちろん自衛隊は即時解体、日米安保条約は破棄して米軍基地を全てなくすべきです。「第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める」との規定は改め、日本国籍を持たない旧植民地出身者とその子孫も日本国籍所有者と全く同等の(国政選挙の被選挙権を含む)政治的社会的な権利を持つようにするべきです。居住の事実のみに立脚して権利と義務を構成する、市民権型の制度を採用することを憲法上で明記するべきです。
 そしてもちろん、性別には「男・女」の二つしかない(両性の平等)ことを前提にし、しかも婚姻をその男女間のみに認めることを明記している第24条も、性別二元論に基づいているものであるので、改訂するべきです。「結婚した男女二人とその子どもで構成する家族」を社会の基本に据えるという事自体がそもそも間違っているんであって、その間違い自体を残した上で「家族の中の男女平等」だけを主張されるとまるでお笑い番組を見ているような気になります。「大人になれば結婚する」ことを自明視する社会自体を変えるべきだし、結婚しないで暮らしている人が何の不自由なく生きることのできる社会をつくるべきです。「結婚した男女二人とその子どもで構成する家族」とは異なる形の「家族」や、そもそも「家族」という括りとは異なった「人々の支え合いのシステム」をつくるべく取り組むべきではないでしょうか。現憲法第24条は、決して守るべきものではなく、むしろ逆にその改正を主張していくことこそが「私たち」の仕事なのではないでしょうか。

ひびのさんはパレスチナイスラエル軍に拘束された事実から、自分が特権的な日本「国民」(日本国の外務省に救助を求めることができる)であることに気付き、在日朝鮮人等「日本国民」でない人達の権利はどうなるのかと問うている。「「第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める」との規定は改め、日本国籍を持たない旧植民地出身者とその子孫も日本国籍所有者と全く同等の(国政選挙の被選挙権を含む)政治的社会的な権利を持つようにするべきです。居住の事実のみに立脚して権利と義務を構成する、市民権型の制度を採用することを憲法上で明記するべきです。」と、「ナショナルなもの」に人権を制限することに反対している。

稲場さんの現実主義とひびのさんの原則論は、私にとって、社会運動を考えようとするさいの絶えざる参照項である。今回のアーレントの読書をするうえでも、この二人の思考と実践のことを、絶えず考えていた。

講座終了後、交流会。さらにその後、食事をして、偶然にも本郷で催されていた全国「精神病」者集団http://www.geocities.jp/bshudan/の交流会に参加し、帰りに「あかね」http://akane.e-city.tv/に寄って帰宅。これも偶然だが、今日は当番を引退する岩田さんの最後の当番日だった。岩田さん、長い間本当にお疲れ様でした。私が無責任に土曜当番を放り出した後、岩田さんが堅実に引き継いでくれて「あかね」は存続できた。そのことには幾ら感謝してもしたりないと思う。

帰りに電車内で『ジジェク自身によるジジェク』という本を三分の一ほど読みながら帰る。ジジェクは、紹介された当時はただ破天荒に面白い哲学者という印象だったのが、最近の著作は難解極まり、まるで読解できないでいる。『厄介なる主体』『迫り来る革命』『身体なき器官』いずれも途中で放擲している。ラカン精神分析と、シェリングヘーゲルを中心としたドイツ観念論への参照が分かりにくい。私は、哲学徒だった頃、ドイツ観念論を「敵」と看做していたためそれほど読んでいない。全集が出ているカントとヘーゲル以外、まだ翻訳紹介の途上にあり、全貌が掴めないというのも読めなかった理由だ。(フィヒテ全集は刊行中、シェリングは翻訳がそれほど進んでいない。)とはいえ、ドゥルーズを理解するうえでも、ラカン精神分析であれシェリングヘーゲルの哲学思想であれ、もっと知っておく必要があったのは事実。私は私の怠惰さのために、研究者(私的思想家としての)の道を自ら断ったのである。