死屍累々のサヴァイヴァル━━ゾンビたちのレイヴ・パーティ

友人の矢崎衣良から送られてきた草稿です。

死屍累々のサヴァイヴァル━━ゾンビたちのレイヴ・パーティ
矢崎 衣良
1.
「12月20日の昼ごろ、東京都新宿区の早稲田大学文学部キャンパスで、ある青年がビラ撒きをしようとしていました。ビラの中身は、2001年7月31日の早大キャンパス内サークル部室強制撤去以降行われている、早大当局による言論弾圧、集会破壊に抗議する行動を告知するためのものです。学内に入りふと気がつくと、彼はどこからともなく現れた7〜8名の文学部教員に取り囲まれていました。彼はそのまま警備員詰所に連行、軟禁された上、第二文学部教務担当教務主任らが導入した牛込警察署の警察官によって"建造物侵入"の容疑で逮捕されてしまったのです。」
大学キャンパス内で、当局を批判するビラを撒こうとしただけで逮捕!? この「珍事件」(笹沼弘志)は波紋を呼び、井土紀州・木村建哉・池田雄一・絓秀実・丸川哲史の呼び掛けで、数百人に上る学内外からの抗議署名が集められている(http://wasedadetaiho.web.fc2.com/ 参照)。
2006年2月6日の土曜日、早稲田大学文学部での抗議行動・ビラ撒き、集会とデモ行進、そしてシンポジウムが催された(シンポジウムの模様については、http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060205 参照)。シンポジウムは会場に人が入り切らない程の盛況で、その後の交流会にも数十名が参加し、有意義な意見交換等がなされた。

2.
私はそれに参加した。先ずもって強調しておきたいのが、この運動、この闘争が大いなる「享楽」の場であったということである。そこにはリアルな出会いがあり、脆いが故に強い共同性の生起があり、生き生きとしたものの息吹きがあった。
先ずもって「戦後民主主義批判」としてあった68年的な大学紛争の効果として生まれた早稲田大学地下サークルスペースを守る闘争に端を発し、2001年7月31日の闘争でその盛り上がりがピークに達し、そのスペースが当局によって実力(暴力)で奪われた後は、サークルスペース運営委員会管理関係者らの権利回復と、自治スペースの回復を求めて、学生運動が闘われてきた。今回の不当逮捕事件も、明らかにこの文脈の中にある。当該青年の不当逮捕に抗議することは、サークルスペースの当局による奪取に抗議することであり、ひいてはサークルスペース自体をもたらした68年的な学生紛争自体を肯定することである。この不当逮捕への抗議を通じて集まった脆い共同性そのものが、その起源に、学生紛争という一つの暴力(享楽)を有しているのであり、それの肯定としてあるのだ。この闘争は、「不審者」の表象(入江公康)をテコに「セキュリティ」を口実として強行されようとしている「大学正常化」(森元孝)への抵抗としてあるほかない。
絓秀実が言うように、「ビラを撒いて逮捕された人間が、早稲田の関係者(学生、OB、中退者etc)でもなく学生でもなかったということは、監視/管理体制の亀裂から何が浸透しつつあるかを明確に指し示している。もはやかつての自治組織のような大学に根ざしたものではなく、より匿名の、より流動的なネットワークを形成されつつあり、そのなかから、たまたま早稲田に流れ込んできた者がいると言いうるのだ。そして、そのような脱=大学化の流れを肯定することこそが、真に68年的な意味での「大学解体」にほかならない。繰り返して言えば、現在の問題は、規律/訓練型の自治的組織が無効となった時、それ以降に何を構想するかということなのである」(http://wasedadetaiho.web.fc2.com/i/postjichi.html を参照)。そして不当逮捕抗議を巡るこの闘争自体も、「より匿名の、より流動的なネットワークを形成されつつあ」るその只中から生起したものに他ならない。本闘争自体が、JUNKの逆襲、JUNKの闘争であると言えよう。
不当逮捕された当該青年は、映画を学ぶ中で抗議署名の呼び掛け人や賛同人らと親しくなり、また早稲田の学生運動にコミットしていくようになったのだという。私たちが見出さなければならないのは、既成の大学の学びに回収されない、このような回路であり、「脱=大学化の流れを肯定すること」(=「大学解体」)とは「街路」を「外」の経験(酒井隆史)の学びの場とすることである。それはオルタナティヴな学びの場を構想し実践することであるが、狭い意味でのフリースクール的な実践のみならず、積極的に「街路」へ、共同体創出的な「運動」の実践へと向かうことでもあるに違いない。
酒井隆史は『自由論』で次のように語っている。「「六八年以来、街路を自らの思考の源泉とした思想家にとって、問題は「冷笑家」たちの修辞上の華麗なヒネリ合いに加わることではなかった。脱中心化、分散、「自己からの離脱」といった「外」の(非)経験が現実に生きられている「街路」において、そのような経験の場をポジティヴな新しい関係性の生産の場に組み替えることは、とりわけそこで生きている人びとにとってはほとんど選択の余地のない生き残りのための手段なのだから。問題はそうした「外」を生きうるものにすること、行為を与え、さらにはそこに「主体」の構成の過程、または「自己」を位置づけることこそが問題なのだ。たとえば快楽とはフーコーの定義では主体の外の経験なのであるのに、そこからほとんど不可能であるかにみえる、社会性あるいは公共空間を構築することができる。とフーコーは言うのである。フーコーは快楽と身体の多数性を、去勢なき快楽への没入や壊乱的な「外」の(非)経験の称揚でもなく、むしろ「禁欲実践」の「行為」とさらにそれが織りなす公共性の構築の素材として提示する。フィスト・ファックですら拍子抜けするような場面の出発点となるのだ。「実際フィスト・ファックについてフーコーをもっとも悩ませたのは、規範から外れたある性行為が、どのようにして一見べつべつの無関係のできごと、手作りパンの即売会とかコミュニティの資金集めパーティとか町内でのお祭りとかの、出発点とか基盤になるかだった」(Halperin 1995=1997 訳一四五頁)。「ウラ」の、「地下」の公共性──こうしてフーコーは、近代の正道を行く思考とは袂を分かち公共性をその「地下性」の「暗さ」において定義するのだ。」」
 私たちの課題もまた、「「外」の(非)経験」を「現実に生」きること、その実践を通じて「ほとんど不可能であるかにみえる、社会性あるいは公共空間を構築すること」である。

3.
そしてそのような運動、実践の担い手こそ、絓秀実のいうJUNK、或いは「より匿名の、より流動的なネットワーク」である。(特に文系の)大学(院)を出ても、まともな就職先などまず無いという資本主義の現実を前にして、「コジレ」たり「ヘタレ」たりした厖大な「死屍累々」たちが受動的且つ積極的に構成する戦争機械こそ、JUNKの逆襲(闘争)の集団的主体性に他ならない。それは絓秀実がどこかで述べていた「決して能動態になり得ない何か」、岡崎乾二郎の言う「サボタージュ」としてある。ふみあしいさみの言うような、「このような「死屍累々≒メンヘル系」がオルタな生の様式を創出してサバイバルしていくための<原理論>」は絶対に必要である。ふみあしいさみは言う。「このような社会学者たちの勝手な領有に対して、メンヘル系の人々が緩やかにスピリチュアルなものに関わって快楽を得、そのことによって抵抗していく、別の生や共同性のあり方を模索していくためにも、UTSの<原理論>的思考を敢えて社会学的<現状分析論>と対置させ、彼/女たちをその領有から奪還しつつ、UTSを、彼/女たち固有の、もしくは彼/女たちから始まる<原理論>として役立てていくべきだと思っていたのですが…。」(http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20050802 参照。ちなみに「UTS」とは上野俊哉『アーバン・トライバル・スタディーズ』を指す)
「死屍累々≒メンヘル系」が「快楽を得、そのことによって抵抗していく、別の生や共同性のあり方を模索していく」営為自身は、「スピリチュアルなもの」に限定されないはずである。私はふみあしいさみがレイヴパーティーに見た可能性を、たとえば早稲田でのデモに見たい。「脱中心化、分散、「自己からの離脱」といった「外」の(非)経験」の生起する出来事としてデモを捉えたいのだ。それは端的に快楽ですらある。冗談ではないが、「デモは体に良い」という科学的研究すらあるのだ([aml 31495]の山本真理の投稿を参照)。これは、体操と霊操が一致する地点を指し示している。

4.
しかし、何か明るい前向きな展望が開けてきたわけでもない。相変わらず絶望の箱の蓋は閉ざされたままである。「革命は続いているか」と題された、2001年7月31日の闘争に触れた文章で、三ツ野陽介は奇妙な閉塞感について語り続けている。ちょっと長文になるが引用してみたい。(http://www.juryoku.org/mitsuno.html 参照)

「絓氏の「若い人のお役に立てるかという老人のご奉公」は、若者にエールを送っていると読むべきかも知れないが、それは多くの「若い人」にとって耳を塞ぎたくなるような傍迷惑な声なのかも知れない。なぜなら同時にその声は「死ね」と言っているように聴こえるからだ。僕には幽かにそう聞こえた。」

「例えば、映画『LEFT ALONE』において、もっとも美しく哀しいシーンは、2000年に起きた早稲田の「サークル部室移転反対闘争」を撮影した冒頭のシーンである。アンダーグラウンドな趣きのある旧サークルスペースを廃止し、監視カメラや厳重な入館者チェックのある新学生会館へのサークルの移転を強制する大学当局に対して学生たちが抗議したこの事件は、現代の「学生運動っぽい」出来事として写真週刊誌に取り上げられるなど、ちょっとした注目を集めた(絓氏の「重力02」の編集後記によれば、この闘争は「近年の対抗運動史上の画期をなしている」)。早稲田の当局に対して、お祭り気分で抗議する学生たちと共に陣頭で怒号する絓氏がスクリーンに映し出される。夜の早稲田キャンパスに流れるモーニング娘。の「恋愛レボリューション21」に合わせて踊り狂う絓氏、そして学生たち。
学生たちはたぶん、自分達の「闘争」が何の意味もないことをよく知っているし、自分達が本当に戦うべき敵が、大学当局なんかではないこともよくわかっている。よくわかっているということをちゃんと言い訳するために、わざわざ「恋愛レボリューション21」なんか踊ってみせたりするのだ(絓氏は「重力02」の共同討議の中でこれを「権力化するしかない暴力を「モー娘。」によって散らすわけです。「ナンセンス・ドジカル」とは、そういうことでしょう」と解説している)。確かにこれはモーニング娘。が歌うところの「超超超超イイ感じ♪」ではあるのかもしれないが、とても哀しい。抗議していた学生たちの中には、自分が結局は新学生会館に移り、管理の行き届いた綺麗な建物の中で結構快適に暮らすだろうということを、よくわかったうえでやっていた学生もいたに違いない。しかしこの学生には、ならば本当に戦うべき敵が何なのかということだけは、よくわからないのだ。そして、絓氏も決してそれには答えようとしない。」

「かつての「闘士」は、かつての「革命家」は、己の敵が何であるかを知っていた。少なくとも、「それを信じ込むこと。信じるフリだけでもしておくこと」ができた。しかし、今日はどうだろう。いま、単純さを恐れずに行動しようとすれば、「人間の盾」みたいに皆の笑いモノになっておしまいだ。ではいったい、何に対して抵抗すればいい?ナンセンス・ドジカル?ぼくには「死ね」と言っているように聞こえる。」

「死ね」という声は、今回の闘争に参加した私にも聞こえなかったわけではない。正確にいえば、「おまえは既に死んでいる」という声が聞こえたのであり、既に死んでしまった存在として、ゾンビとして、時には快楽や享楽を得ながら運動したり闘争したりする存在でしかあり得ない自らのあり方を反省させられたのである。三ツ野陽介の絶望的な身振りは、同時に私たちのものでもあるのではないだろうか。正体不明の曖昧な「敵」に実効性のよく分からぬ「抵抗」を対置するしかなく、「死ね」という声の只中で、それを引き受けつつ、しかし際どく生き延びていく術を編み出すより他ない。それが私たちの「現在性」ではないだろうか。「敵」が正体不明で曖昧な存在である以上、それに抵抗(闘争)する側の集団的主体性も識別不可能なものになっていくより他ない。
「自分達の「闘争」が何の意味もないことをよく知っている」とか「自分達が本当に戦うべき敵が、大学当局なんかではない」というのはシニカルな開き直りではないのか、と反問することもできよう。自らの営為に意味がないことを知りながら敢えてその行為を行うというのは、根本的にロマン派的(美的)な身振りであり、実際に世界大で「成果」を出していくことを重視する社会運動の論理からすれば、批判されざるを得ないものであろう。しかし、三ツ野陽介の絶望ないしシニシズムには奇妙なリアリティがある。それは私たちの「現在性」の諸条件の一つを確かに指し示しているようにみえる。三ツ野陽介に応答するとしたら、然り、私たちは死んでいる、私たちはゾンビとして、「死屍累々」として、自らのサヴァイヴァルを賭けて「街路」というオルタナティヴな学びの場に生身を晒しているのであり、その過程を通じて、「脱=大学化の流れを肯定すること」を実践しているのだ、ということになるであろうか。
しかし、それだけで三ツ野陽介に対する十全な反論たり得ていると言えるだろうか。快楽や享楽を得ることを肯定するだけでは刹那主義にしかならない。私たちは、そうした美学的な運動スタイルを乗り越え、地味かもしれないが実際に「成果」を出す運動を担っていかねばならないのではないか。或る種の共同性なき共同体を、昔風の言い方では「連帯」を作っていく、ということもその一つである。現実の資本と国家に実際に対抗する運動に参加するということもその一つである。今回の闘争で提起された問題を、ポスコロ・カルスタ教員の反動性や大学のセクハラ・ガイドラインの監視社会下で帯びる意味への批判のみに矮小化させることは、現実の「敵」が何処にいるか見失うことになるだろう。問題をグローバルな(世界大の)文脈に置き直して、新たな複数の闘争=逃走を発明していかねばならないのであり、それこそ「死屍累々」がサヴァイヴァルする唯一の道なのだ。