共同体の問い

私がNAMやQにおいて「共同体」が問われていた、というのは、穂積一平鈴木健太郎がNAMを「フリーター問題」として把握するのと同じである。
柄谷行人がNAMの原理で言う「自立した個人」とは、あからさまにいえば、「サラリーマン」のことを指していた(スペースAKでのヴィデオ参照)。
しかるに、サラリーマンに倫理的契機(後に柄谷行人が「革命運動の動機」と呼んだもの)があるかどうかはそれ自身疑わしいのだが、NAMに集ってきた・そして何らかの発言や活動に携わることの出来た人たちの大多数は、フリーター・学生やそれに準ずる層であった。
倉数茂のいう「ジャンク浪漫派」の運動といった趣を呈していたといってもよい。
倉数茂がNAM事務局長だった時、カフェSで巨大スクリーンに映し出されるワールドカップの映像を観て興じるNAM会員たちの姿を見て、当時NAM事務局員(副事務局長)であった私は、倉数茂に、「まずいよ、これじゃあ、意味がない、(NAMに)存在意義がないよ」と言ったのを覚えている。
また、すがゼミにすが秀実を訪ねた際、「柄谷さんにNAM会員の平均年収を予想してもらって、実際のNAM会員の平均年収と幾ら違っているか(どのくらい落差があるか)、みんなで賭けをしよう」とジョークを言ったのも覚えている。
要するに、NAMの原理が謳っていた「自立した個人」(サラリーマン)の安定の幻想が崩壊しつつある時代に、その事実を認識することなくサラリーマンを対抗の主体に据えた運動を開始したというところに、NAMの理念と現実の大きな乖離があった。
Qの共同体創出的な実践は、そのNAMに実質的な何事か──人と人との絆の創出──をもたらした。