引用

 凡夫たる工人たちからどうして成仏している品物が生れてくるのか。仕事を見てい
ると、そこには心と手の数限りない反復があることが分る。有難いことにこの繰返し
は才能の差違を消滅させる。下手でも下手でなくなる。この繰返しで品物は浄土につ
れてゆかれる。この働きこそは、念々の念仏と同じ不思議を生む。なぜならこれで自
己を離れ自己を越える。あるいは自己が、働きそのものに乗り移るといってもよい。
自分であって自分でなくなる。この繰返しの動作と、念々の称名は、似ないようで大
に似たところがある。称名には「我」が入ってはなるまい。工人の働きにも「我」が
残ってはならぬ。この「我」を去らしむるものは、多念であり反復である。
 考えると工人たちは識らずして称名をしながら仕事をしているともいえる。焼物師
轆轤を何回も何回も廻すその音は、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏といっている音で
ある。そのほかのことではあるまい。反復という称名がなくなると、工人たちは、も
との凡夫に止まる。何ものをも美しくは作れない。浄土門の教えはここでも嘘言でな
いと知れる。誠に不思議な縁であるが、民藝品、いわば下品の器が「凡夫成仏」を説
く浄土宗に私をいや近づかしめる仲立ちとなったのである。仏教の教えにも色々ある
が、最も温くまた有難いのは凡夫が成仏出来るという教えである。上品の者だけが成
仏出来るというなら、衆生の暮しは暗いであろう。おおかたの人間が凡夫に過ぎぬか
らである。しかるにその凡夫がわけても成仏出来るという真理を説くのが浄土教の特
色である。美しい民藝品は、下品成仏のまがいもない生きた実証である。

柳宗悦南無阿弥陀仏』(岩波文庫、ISBN4-00-331694-0)p44-45