多忙な日々

F労執行委参加。渋谷直行し反G8行動報告会参加。飲み会は貧乏故キャンセルし即、帰宅。メールチェック&削除終え、F労メルマガ臨時号(22日行動の件)発行。メルマガ割り振り等。明日は元NAM有志の集まりgrass rootsの会合が表参道であり、N、O、S、T、Uと会う予定だが、台風直撃したら家に篭る。しかしそれにしても金が無い(笑)。現在所持金2,000円強。東京生活やっていけないこと確実。都会は金掛かる。交通費を1円に負けて欲しい(笑)。障害者割引みたいな、活動家割引とか出来ないものか(笑)。社会運動だって社会貢献だよな。労われてもいいはずと思うが。資本主義を個人的に(笑)揚棄、否、放棄したいとふと思う。衝動的に(笑)。だってネットラジオだってメルマガだって、それにこのブログだって全部無償奉仕だよな。対価は取ってない。で、それでいい、と思ってるんなら、それで生きていけるような仕組みを考えたほうがいいよね? あれ、この論理間違ってます? (恥) ←嘘。俺は恥知らず(笑)。

20世紀哲学入門

を書こうと電車内でふと思った。20世紀哲学は、現象学(ドイツ)、分析哲学英米)、現代フランス思想(フランス)に大別され、そのうちの現代フランス思想、特にドゥルーズ=ガタリを中心に解説。DGのテーマは「差異」を思考すること。のみならず、想像=創造すること。プラトン以来の哲学や神学の歴史は「一」や「同」に差異や多数多様性を従属させてきた。今こそ差異と多数多様性を解放すべき時だ、というのがDGの基本的主張。DGの主著は、唯物論、経験論、自然主義人間主義マルクス『経済学・哲学草稿』)の新たな展開。分裂者の欲望を実在的で積極的なものと捉え、普遍的生産として把握する。それはリアルな流れの中での生産だし、意味の生産(『意味の論理学』)でもある。DGは信用制度に支配された現代資本主義社会を欺瞞・シニシズムの完成として捉え、それを破壊しようとする。何によって? 贈与と盗みという、資本制的等価交換に還元できない「出来事」の肯定によって。DGは、マルクスニーチェフロイトの再考であり批判である。即ち『アンチ・オイディプス』においては自然人から歴史人への移行を語り(ヘルダーリンからニーチェへ)、永遠回帰を語るのだが、それは「歴史」というものに対する新たな見方の創出でもある。

ドゥルーズに一点だけ疑義を呈したい。『意味の論理学』における匿名=非人称の「人 on」の光輝を語ったくだりだが、何故それが日常を生きる凡庸な人と分離されねばならないのか。言い換えれば、芸術的な語りが日常生活の語りから分離され特権化されねばならない理由は何か。私は日常の凡庸な生を肯定したほうがいいと思うし、高邁な芸術作品に耽美するよりも、草の根的なDIY生産で面白い表現を次々に生産していくほうがいいと思う。「人」の位置づけが審美的だから、ドゥルーズ哲学はその総体が美学的になってしまう。が、私はそれだけには同意できない。

DG1

最も簡単にいえば、DGの哲学は変身の哲学と言うことができる。差異の哲学とも、生成の哲学とも言うことができるが、差異も生成も哲学特殊用語なので、万人が分かる変身という言葉を敢えて使った。全ての人が、また人のみならず全ての生物個体が、生物個体のみならず全ての物が秘めている、変化可能性をとことんまで追求した哲学がDGの哲学である。

例えば、習慣をつけることによって私は私として個体化するが、習慣を組み替えることによって他へと変身する。記憶を参照することによって私は私という人格(人称)となるが、しかし参照システムをずらすことで他へと変身する。死の経験=限界経験や永遠回帰は前個体的で非人称的な特異性の乱舞の肯定であるが、それは無限に続く変身過程の肯定でもある。また、進化は個体的差異がどこまでいけるかの一つの実験である。自然環境は一つのシステムとして進化=変身の実験である。社会システムは自然環境に基づけられたうえでそうなのであるが、やはり社会体の変身=革命の契機を内在させた実験過程である。

近代の資本制国民国家自体が実験である。数世紀続いているからそれが自然にみえるだけだ。旧社会主義国家は対抗-実験であったと言うことができる。そして今は、新たに、「国家」という枠組みそのものを揺るがすような世界秩序の再編の予感が、ネグリ=ハートらの『帝国』に綴られている(が、予感はいまだ予感であり、世界はいまだアメリカ帝国主義=単独行動主義に大きく制約されているとはいえ)。

「人間」という形態も、労働、生命、言語によって条件づけられた実験的で過渡的なものであり、他へと変身していく契機を秘めている。ニーチェ的超人の到来については、慎重に吟味すべきだが、とにかく次々に新たな自己=集団的(私はむしろ「習慣的」と言いたい)主観性が生産され続けている。DG以後、柔軟で多様な主体がデフォルトになった。他へと開かれ、外部に身を曝し、絶えざる変身を続ける過程としての存在、それがDG以降の主体のありようである。

生活へ降りていく

20世紀哲学入門の続きだが、20世紀の哲学は日常生活を再発見したといえるのではないだろうか。後期フッサール現象学は生活世界を見出し、サルトル現象学では眼の前のこのコップを語れると知って震撼した。ラッセルはこの現実世界を肯定する具体的で実証的な論理を追及し続けたし、英米の後期ウィトゲンシュタインに根拠を持つ日常言語学派は日常的に語られる言葉の意味を分析することで意味を確定しようとした。フランス現代思想は、「現場」の実践と強く結び付いた知のありようだといえる。「現在」に生きる「われわれ」のありようがいかに条件づけられているのかを詳細に追求したのがフーコーの知の考古学だし、非ファシスト的生活の倫理の書としての『アンチ・オイディプス』を書いたドゥルーズ=ガタリは生そのものの潜在力や創造性を精神分析的囲い込みから解放しようとしたといえる。つまり、哲学は20世紀になってようやく、身体や日常生活、生活世界などを再発見したといえるのではないだろうか。

DGに限定すれば、勿論彼らにとって日常生活の場は臆見=ドクサの場であり、哲学、科学、芸術にこそ潜在的力を見るというのが基本姿勢だったわけで、或る意味それは高踏的だし批判すべきものでもあるが。哲学とも科学とも芸術とも無縁な単に生きる人の生はどうなる?