中村雄二郎をほんの少し読む

メール便の配達を終えて西船橋に移動し、三つ目か四つ目の仕事に応募して面接。採用されるかどうかまだ分からないが、いずれもほんの副業副収入的な軽いものですが、ないよりましである。行きの電車内で高橋悠治が演奏するバッハのパルティータを聴く。また、中村雄二郎の第二期著作集で『21世紀問題群』、『臨床の知』を読む。岩波書店の編集者の方か誰かがお書きになった中村雄二郎の評伝、道化的モラリストの肖像とかいう本も捲る。勿論いつもと同じように精読なんかではなく誠にルーズな読書ですが、21世紀の問題であるとか、臨床の知であるとかいっても、一般的な言葉では生命倫理や環境などがメインになっていると思うのですが……。そうすると、哲学者であって自然科学者ではないから、精密な研究ではないのだとしても、例えば原発の危険性や問題性は中村氏だけでなく数多くの知識人や活動家によって把握され指摘されていたのだと凡庸なことを改めて思うが、それにも関わらず3.11を迎えてしまったわけである。私自身も何も反対運動などやっていなかったし、問題意識や危機意識もなかった。そうしてあの震災と原発事故から三年近くが経過したわけだが、あれだけのことがあっても世の中、社会は変わり難いのだとも思う。またしても凡庸陳腐な意見だが、私は世の中、社会を割合容易に変えることができるという知識人・活動家・政治家などを疑う。別に世の中は絶対変わらないし変わるべきではないなどの保守主義をとりたてて主張したいわけでもないが、私自身の経験、震災以前以後の経験は逆を告げている。そうして特に震災、3.11以後のゴタゴタ(現在進行形の)については実にしょうもない無駄が多過ぎると感じているが、そうはいってもそういう紛糾はなしで済ますことはできなかったのであろう。そういうふうにも思う。