雑感

今日も一日疲れたが、江戸川柳についての本や岩波文庫の『荷風俳句集』、講談社文芸文庫内村剛介『生き急ぐ スターリン獄の日本人』などを借りてくる。帰宅してからあれこれ音楽を愉しむ。今しがた入浴してこれから食事。夜はピアノでも弾くか。今日は27日だが、年の瀬は基本的に30日のレッスンを除いて暇なのだが、一日7時間くらいピアノを弾きたいと思っていたことも想い出すが、つまらない遊びに明け暮れて少しも実行していない。

食事にしようと家人も煩いのでメモ風の流し書きになるが、まず昨日の安倍晋三首相による予告なしの靖国参拝について、やはり私も非常に驚いたわけだが、10年くらい前も同様のことについて考察したりして、だがしかし当時の自分の意見は甘かった。今も大して勉強していないわけだが、少しでもましな判断ができるように情報を集め、知識を増していきたい。そうするとそういう下らない勉強などしてどうするのか? という半畳があるだろうが、勉強というのは何か「のために」するものではないと個人的には思う。

それはそうだがこのところ時事問題にばかり明け暮れて、それ以外がおそろかになっていることへの苛立ちがある。私程に暇な人間であってもなおである。もっと抽象的なこと、抽象といってもいろいろとあるが、時事問題、時事ネタや政治、社会運動・市民運動やその批判、選挙絡みの何か、民主主義論、脱原発がどうの、反被曝がどうの、などではないこと、論理や概念に時間を割きたいのだが……。だがしかし何もかも思うにまかせず非常に憂鬱である。もっと抽象的な……それが何であるのかは分からない。

特に理路整然と構成するわけではなく雑駁に脈絡もなく書き流すだけだが、身近な御近所で、例えばアンデルセン公園や県民の森などに散歩したいと思った。お金が掛からない娯楽ということだが、例えば震災と原発事故以降、アンデルセン公園も一時ホットスポットと言われていた。そうしてそれ以前から……最後に行ったのは、というかそこに行った唯一の機会は、5年程前に千代田輝次郎先生門下の津軽三味線の発表会で行ったということがあっただけだろう。メール便配達などで地域を日々廻りながら、またそういうところに遊びに行きたいな、とふと思ったのである。特に理由もなく……それだけだが。

そうして大学時代のことについても一つ一つ想い出していき、さらに辛辣な批評と否定を差し向ける。記憶の中の一人一人について、絶対の否定……。それはどうしてなのだろうか。私にもよくわからない。だがしかし、とにかく否定すべきものであるという意識は強い。過去の記憶や関係の過半はガラクタである。だから、破壊しなければならない。

生き別れた人々や死に別れた人々。絶交してしまった無数の知り合い。絶交と絶縁。ほとんどありとあらゆる関係・方面との。そうして思うが、「いつやるの? 今でしょ今! (Now's The Time)」というような焦慮焦燥は9割9分錯覚である。私の経験からはということだが、《今すぐに》解決して片付けるべきことなどほとんど何もありはしないのである。そういう焦燥感に足を掬われて妄動しても大抵は無意味な結果にしかならない。いささか400年も待機する革マル派のようではあるが、しかし私はそう確信する。自分が自身で経験してきたそう長くはない歳月、多くはない事柄についてどう考え直してみても、やはりそうなのである。革マル派的な待機どころの話ではなく、そもそも待つも待たないも、実現すべきことも予定されていることも、何らの意義も価値も役割も、やるべきことも義務も、全く何一つありはしないとしたら。恐らくそうなのだろうと思うが、それは私自身の《三振》という基本的な発想だが、そこにあるのは《ゴドー待ち》と言われるような無限の暇潰し、決して埋められることのない退屈ばかりであろう。それ以外の積極的なものは何もない。普遍的に全部全体全員がそうなのではなくて、時代がそうだというような勝手な診断でもなく、自分の個人的な感想である。そのくらいかな。