一日寝太郎

何を書かうと思つたのか忘れたが、伊達純氏との絶交の事、さうして「世界統治者」尾崎全紀氏のけふの観察する分には面白い言動などに就てである。即ち尾崎氏は誰かに絡んで即レスを求めて(すぐに答へよと云ふ短絡は所謂ネット右翼がやつてゐるのを見るが、私のやうな暇人もついついやつてしまいがちで反省してゐる。いや。してゐない)、あなたがだうだか知らないが普通の人は日中は仕事を為てゐるのだと苦言を呈されてゐた。成る程その通りである。だが然し、尾崎氏であるとか私は平日昼間から完全に暇であり、一日のんびり遊び暮らしてゐる。それで少しも悪いと思はないが、昔ペペ長谷川氏が仰つてゐた「平昼系」。さうして一年程前に鶴見済氏もさういふ趣旨のTweetをしてをられたのをよく覺へてゐる。

さうして伊達純氏に就て、《他人の批判は大好きだが批判は許さないと云ふ人は運動に向いてゐない》といふ非難を讀んで、矢張り私は我が身を自省したが、ごく一般的に申し上げて、別に伊達氏がどうのこうのと云ふ事ではなく、さういふ人は運動だけでなく仕事にも向いてゐない。それから例へば大学院で専門的な研究を為るのにも向いてゐない。詰まり何にも向いてゐないから、やるべき事といふのがなく、又やれる事がなく、必然的に無為徒食になるしかない。

しつこいやうだが、さういふ事で私は伊達氏の事を考へてゐるのでなく、自分自身のことだけを考へてゐるのである。さうして私が想い出すのは、勿論荷風の『日和下駄』である。彼の戦後日記も昨日青空文庫で讀んで非常に興味深かつた。勿論私には荷風のやうな優れた文才などないが、それでも荷風的な隠居隠退ーー引き籠りといふか何といふかーーには惹かれる。私は規律・訓練も労働も心底嫌いである。大嫌いである。坂口安吾荷風批判『通俗作家荷風』も嫌いである。序でに申し添へれば『オモチャ箱』も心の底から大嫌いである。といふ事だけ結論的に申し上げておきたい。