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最近のような騒ぎになる少し前、数ヶ月前のことだが、 冗談混じりにこう言ったことがある。世の中の大抵の議論は一言「だからそれがどうしたというのか?」と切り返しておけば済むのだと。直後に「それを実行してる人を見付けた」と野間易通氏のtweetを紹介した。

まあそれは冗談だったのだが、半年くらいが経過して、冗談事ではなく本当にその通りだったのではないかと思い始めている。昨日鈴木邦男氏の近著『愛国と憂国売国』を読んで右翼と左翼の区別が意味をなくしたという思いを強めたのだが、もう一つ意味をなくした対立がある。それは政治と文学の対立である。

だが、その話に移る前に説明が必要だが、僕はこう自省してみたのである。つまらないケチつけや揚げ足取りの類いの反差別(?)には"So what?"と反語的に返答しておけばいいのだとしても、佐野眞一『ハシシタ』のようなものも構わないのだと言えるだろうか? それは個人的には抵抗感がある。言葉の問題だけでなく、被差別部落という出自や人格的な欠陥を強引な政治手法に結び付けていたからだ。そういうことでは僕は、石原慎太郎の文学への不満をその政治手法への批判に短絡させる人々にも疑惑を抱いている。

そういうことを改めて思ったのは最近槍玉に挙げられている百田尚樹氏という小説家についてである。僕は彼の小説を読んだことはない。だが、どうも氏の歴史認識を盛んに批判されている皆さんも読んだことはないようだ。それどころか、「こんなヤツの書いた小説なんか読みたくない」と公言されている。それはそれで結構だが、そうすると百田氏は一体どういう資格なり理由で非難されているのだろうかと思わざるを得なかった。

そうすると曽野綾子氏や三浦朱門氏への数々の非難も想い出されたが、もはやここでは小説なり文学ではなくイデオロギー的な言説だけが問題である。

ということでいささか飛躍するようだが、こういう光景はもはや政治と文学という枠組みの失効を意味していると思ったのだ。どういうことかと言えば、日本近代文学ではそれは共産党との関係で提起されてきている。戦前のプロレタリア文学。戦後の民主主義文学/戦後派。『近代文学』などであり、左翼的な政治プロジェクトと文学表現の関係の如何ということがテーマだったのであり、そこから戦前では主題の積極性など。戦後だったら、文学は文学で自立したいというヒューマニズム的な要求があった。

そういう緊張関係という意味での政治と文学問題はいまやないし、それはバブル及びソ連崩壊によって共産党の権威が低下した頃に既にそうなっていたのである。だがしかし現在の状況を上述のように見るならば、そこで問題になっているのはPCだけである。表現ではなくイデオロギーとか、または推測された人格であるか倫理・道徳である。僕はここにはもはや政治も文学もいずれも存在しないのではないかと思わざるを得なかった。