雑感

昨日はレッスンが午後と夕方と二つあった。それが終わったらもう一方お客さんがいらして来月以降のことを少し話した。それからマルエツに買い物に行って食事をして帰り、いつものようにFacebookで激怒してから寝たが、マルエツへの行き帰りにはレスター・ヤングの『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』を聴いていた。検索で調べてみると戦後、1946年の録音だったようだが、ジャムセッション風で、そうして時代を反映してバップである。「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」で展開されて終わりは「オーニソロジー」というのはパウエルに限らず当時のバッパーの常套だったようだが、このセッションもそうなっている。昨晩激怒していたというのは、東京にオリンピックを招致するのに反対することと、東京都内の放射能被曝リスクが高いかどうかは本来無関係のはずでしょう、それが分からないのかということだ。オリンピックに反対する人々や運動はあるし、その理由も様々である。だがしかし、そのことの是非や賛否は別にして、そのために「放射脳」蒙昧を持ち出すのは気に喰わない。その愚かな投稿者は、都民は福島のことを、つまり3.11のことをすっかり忘れて、忘却して……実に下らない、ろくでもないとしか申し上げようがない倫理的恫喝だが、それはともかく……普通に・平常に・平穏に暮らしている。そんな東京に誰がオリンピックを招致したいかというものだが、二重の意味でおかしいが、福島の震災被害を忘却するかどうかと都内で普通に・平穏に暮らしているかどうかは無関係でしょう。放射能の問題はさらに無関係だ。そういうことを言い出すヤツらってのは救いようもなく頭が悪いバカ・キチガイであるか、または、意図的に複数の問題(オリンピック招致/東日本大震災の忘却/関東の放射能汚染・被曝リスク)をごちゃ混ぜにするろくでもないイデオローグ、いやデマゴーグである。

デマゴーグといえばかの悪名高いはなゆーがそうだが、はなゆーのバカは、山本太郎の隠し子が公表されている年齢にしては成長しているようにみえる、不自然だ……とかいうどうしようもない下らない臆測を撒き散らし、しかもそのソースは2ちゃんねる。そうして山本太郎の野郎が共産党大会に出席したことに誰かが「懲罰」を下したとか何とか、全くキチガイですか? 狂っているのでなければ意図的な煽動だが、意図的な煽動だったらなお悪いだろう。誤解しないでいただきたいが、私は原発推進派に荷担しているわけでもなければ共産党に荷担しているわけでもないのだ。上述のようなデマというか、ろくでもない臆測を多数のネットユーザーに拡散しているような輩は有害極まりないから、すぐに徹底的に弾圧して追放すべきだ、社会的に抹殺すべきだと申し上げているのだ。これは政府とか東電とか財界とか推進勢力、原子力ムラとか、または共産党とか、アンチ山本太郎などではなく、誰にとっても当たり前で当然のことである。上述のようなやり口を許してはならないのだ。私はそう思うが、いかがだろうか。

そういうわけで私は世の中というものが非常に嫌いである。そうして上述のことをつらつら述べるうちに、話がいろいろ展開していった。一つは反原発への嫌がらせ展というものについてであり、リベラル勢力は盛んにそれについて下らないお喋りをしているが、人間性の暗黒面とか、本当にバカじゃないかと思うが、そういうことでろくでもない自己正当化に終始しているのだ。3.11以前には脱原発なんてやってなかったヤツらも多いはずだが、遠い過去、80−90年代に自らの起源やルーツを見出して、そのときから闇とか暗黒とかダークな勢力から陰湿な嫌がらせ攻撃を受けてきた、現在もそうである、だから、そういう迫害を受けている自分たちは「正しい」などという、もうほとんど原始キリスト教以来変わらないどうしようもない心性が罷り通っている。いまふたつオリンピックの事例とはなゆーを挙げたが、こういうろくでもない下らないバカ野郎どもは嘲笑されるのが絶対に正しいのだ。不当な攻撃や嫌がらせなんかではない。むしろ正当であり、是非やるべきことであって、甘い顔など絶対にすべきではないのだ。そのときに「いのち」がどうの、「愛」がどうのなどと下らない詭弁や感情論を絶対に持ち出すべきではない。そういうヤツらは見付け次第徹底的にやっつけて粉砕し抹殺すべきである。

その流れで、2001年に柄谷行人が二つ妥当なことを言っていたのを想い出した。一つは、当時の左翼・左派の知識人や活動家には、大学や運動体でちょっとマイノリティ支援や反差別をやっているから自分が偉いというようなろくでもないヤツが多かったということで、現在もまさにそうであり、「ヘサヨ」とカテゴライズされる連中が全員そうである。もう一つは、もうほとんど漫画・劇画・アニメ的な勧善懲悪・善悪二元論のバカが多過ぎるということで、それは上述の「いのち」がどうの、「愛」がどうのなどという連中だ。人間性のおぞましい暗部、暗黒、闇、ダークマターがどうのこうのなどという下劣なバカどもである。黒い彗星、志葉玲氏、増山麗奈氏、中村順氏、さらに國分功一郎氏などだが、そういう連中の意見を読むたびに私はうんざりし、本当にそれこそ人間性そのものが厭になる。人間性の暗黒面がどうのこうのなどというならば、あなたがたはもっとそれを知るべきである。マニ教的なというより、どこぞの下らないアニメか何かと変わらない、単純極まりないしどうしようもない善悪二元論陰謀論をやめるべきである。お前らにはリアリズムとか現実的な洞察というものが何もないのか? まさに文字通り脳内御花畑なのか? 自分たちに反対する連中はみんな「ダーク」、闇の勢力……アホですか? そんな下らない、ろくでもなくどうしようもない人間観やものの観方は絶対にやめるべきだ。やめなくてもいいが、そんなアホを誰も相手にしないのは当たり前のことだ。

そこから補足的な考察や意見が幾つか出て来るが、そうするとそのことは、エヴァンゲリオンセカイ系を見、ゼロ年代決断主義・サヴァイヴァルだという(それ自身は恣意的などうしようもない言説だとしか思わないが)宇野常寛氏などのサブカル論者も上述の流れで見たほうがいいのではないかということ。それから、さらに歴史的に見るべきだということで、それは、そもそも根本的には滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』のような江戸時代の伝奇ものの世界ではないか。明治以降近代文学が確立されるにつれてそういう図式的な勧善懲悪や伝奇ロマンは退潮していったが、それへの抵抗や異端的な流れは存続しており、尾崎紅葉の『金色夜叉』などである。泉鏡花とか、また戦前戦後の大衆小説やジャンル小説はまた別箇だろうが、そこまで話を広げる余裕がない。

そういう想像力の系譜のなかに全共闘以降の左翼の漫画・劇画・アニメ的発想は位置づけられるのではないかというのが私の意見であり、例えば全共闘の頃には白土三平の『カムイ伝』などがよく読まれていたという。またよど号グループの声明「我々は、明日のジョーである」も当時人口に膾炙したと思うが、それの意味合いも両義的である。横紙破りの閉塞的現実打破の痛快なマニフェストとして捉えるのか、そうはいっても、当時平壌に「脱出」したのはいいが、それを数十年後の現在も引き摺らざるを得ず、また、北朝鮮当局とのややこしい関係、拉致がどうのということにも巻き込まれというのはいかがなものなのか。やはりこれはちょっとどうしようもないのではないかと思うべきではないか。全共闘とかよど号などに限らず、その後も、私が知る限りの直接間接の知り合い連中もその多くがそういうものと変わらない。ろくでもない図式主義的割り切りであり、善悪二元論、勧善懲悪である。自分は正義だという独善と思い込み。どうしようもないだろう。

そういうことをよく示す逸話がある。私が早稲田大学に通っていた90年代に先輩から聞いた話だが、或る革マル派の学生が教室にやってきて学生たちをオルグしようとした。そこに居合わせた教員・教授が学生たちに「こいつは革マルだから気をつけろ」と注意したそうだ。そうするとその学生活動家の激怒した言葉がいいが、「革命戦士に何を言うか!」

……全く情けないというか失笑するしかないが、客観的には、他人から第三者的にみれば新左翼セクト革マル派)のカルトでしかないものが、主観的には絶対の正義、「革命戦士」になってしまうのだ。そうして現在は劣化はさらに深刻に進行し、「いのち」と「愛」を守る、人類の未来を、子供たちを守る脱原発/反被曝の戦士であるとか……。自分は美しい。カッコいいなどと、いい加減にふざけた思い上がりもやめていただきたいものだ。客観的には醜悪極まりないよ。バカ野郎どもが。セルバンテスの『ドン・キホーテ』の妄想騎士というよりも、筒井康隆の『将軍が目醒める時』(新潮文庫)の葦原将軍みたいなもんだ。

筒井康隆の小説では、葦原将軍は或る日突然正気に戻る。だが、新聞記者に葦原将軍として謁見し会見料を記者たちからせしめていた院長の思惑で、狂人を演じ続けなければならない。それはうまくいっているようにみえるが、だがそのうちに破綻する。彼は自分が狂人を演じることにさえも失敗した、挫折した、もはやウケなくなったと深刻な抑鬱に陥り、再度発狂してしまうのだ。つまり、正気に戻った自分は真正の、本物の将軍だと。彼の二度目の発狂は、再度、戦争──太平洋戦争への突入の徴候(兆候)である。

というような筒井康隆の心理学/精神分析精神病理学的洞察や、政治的・歴史的洞察には疑問を持つ向きが多いかもしれない。だがしかし、上述の寓話は現在こそ再読し再考すべき何かを含んでいることは間違いない。

さて、この一連の展開も最後だが、私はおしまいに次のようなことを考えた。数日前に2ちゃんねるで読んだが、マル共連BBCが閉鎖されたそうである。共産党板のよねざわいずみさんについてのスレッドで読んだのだが、そうすると、ゼロ年代以降最近の激動のなかで「趣味者」、共産趣味者というステータスやポジションがもはや誰にも維持しがたいものになってきたということではないか。そうするとどうなるかといえば、私は過去に多少知っていた連中を一人一人思い浮かべてこう思ったが、その進路というか命運は次の三つである。まず、つまらない「真面目」な活動家になるか。或いは、そういう政治や運動から一切手を引き、または表舞台から姿を消し、世間に「埋没」するか。この「埋没」というのはGIDトランスジェンダー論争の用語であり、詳しくはよねざわいずみトランスジェンダリズム宣言』を参照していただきたい。第三には発狂、端的な狂気である。放射能の見えない恐怖であるとか、存在もしない世界を影で支配する黒幕とかボスとか、そういうアホなものを妄想しておかしくなるヤツらが膨大にいるのと同じように、マイノリティや弱者の当事者性を主張するうちにどこかでおかしくなってしまったヤツらが膨大にいる。私はこう思う。そういう人々は、ひょっとしたら尊厳という意味合いも含めての感情の問題には普遍性はないのかもしれないという省察がなかったのではないか。だからトンデモになってしまったのではないかと。そういう連中への私の態度は、当たり前のことだが妥協も共感もサポートもない端的で絶対的な、非情な遺棄であり絶縁であり、否定と攻撃である。

私は朝は2時に起きてずっとYouTubeを聴いていた。そうして先程シャワーを浴び、コールマン・ホーキンスの『ハイ・アンド・マイティ・ホーク』を聴いていた。今終わって、何か探して次の音楽を聴く予定である。