雑感

てらおストアにキヤベツと卵、チキンカツと鶏の唐揚げを買いに行つて來た。十時開店であるから、其れに合はせて参つた訳だが。母親と二人、先ずはウエルシアで煙草を一個購入してからてらおに向かつた。レジに並ぼうと思つたら、何処かで見た事の有るやうな顔に出喰はした。共産党の地区選出の船橋市議の関根和子先生が御連れさんと買い物にいらしていたのであつた。一言挨拶をと思つて声を掛けてみたが、その後も少し離れた処からよくよく観察して、彼女と連れの男性の表情に表れた侮蔑を決して見逃す事は無かつた。

其れは元々数十年前から同一の習性である。共産党に限らず誰でも同じだが、さう云ふ事では二十年前の事をよく想い出すのであるが、僕は何一つどのやうな事も忘れず全部克明に憶へてゐるからである。それは早稲田大学の文化団体連合会、いわゆる革マル派系の団体であるが、それに委員長であつた磯貝宏氏の事だが、氏が現在だう過ごされてゐるのかなどと云ふ事は当然存じ上げてゐないし、又興味関心も些かも無い事ではあるが、当時彼の表情や眼差しにあからさまに浮かんだ侮蔑の色を十七、八歳であつた僕は決して見逃さなかつたのである。さうして其れをその後も絶対に忘れず、さうして許すと云ふ事も絶対にありはしなかつた。──象は忘れない。だがしかし、豚も忘れないのである。

要するに僕は若い頃から、いや子供の頃から《滑稽な存在》であつたし、又今もさうであるというだけだが、要するにミンガスの初期の傑作アルバムの題名にあるやうな『道化師』である。然しながら、又話が世俗的に俗つぽく飛躍してしまつて申し訳がないのだが、『相棒』の「ピエロ」という回で云はれていたやうに、道化師の笑顔の化粧の背後にどれほどの悪意が隠されてゐるのか、往々にして人は知らないのである。

まあ現在のやうな平穏な、とりたてて何もないといつた状況では敵対や対立は最終的で決定的なありようにはならない。戦争と云ふやうな事態にはならないのである。其れはさうだが、僕は常にさう云ふ覚悟をしてゐるし、共産党であるとか関根先生に限らず、およそありとあらゆる他人に対して絶対的な懐疑と不信、拒絶という決然とした意志、絶対的な意志、《絶対の意志》をあからさまに示してゐるのである。絶対の意志。其れは徹底的な、絶対の不信であり、拒絶であり、拒否であり、さうして否定である。

僕は当たり前の事だが、他人やいかなる団体の判断よりも自分の意見を優先し信じてゐる。共産党であれ何処のアレであれ、要するに、素朴な民衆は歓迎すべきものだが、とんでもなくひねくれた連中はさうではない。そんな事はよくよく承知してゐるが、だがしかし申し上げたいのだが、僕であれ誰であれ、人間素朴で純真などである筈がないであらう。其れは簡単に一言で申し上げればただ単なるバカと云ふのですよ。人間は疑つて掛かるのが先ずもつて絶対に正しいし、さうあるべきなのだ。僕は常に申し上げてゐる。人間を救ふのが人間だ。ではない。人間の「足を掬う」のは人間だと。其れこそが人間社会における唯一の真理であり真実である。